1942年の国民学校入学式に考えるー教育勅語をめぐってー

  4月は入学式や入社式の季節だ。まちを歩いているとそれらしき若者や子どもたち、親子連れに遭遇する。私は奇妙な感覚に襲われる。砲声の轟きがすぐまで近づいているというのに、憲法第9条が改正され徴兵制が施行されれば、幸福そうに見える子どもたちも若者も有無を言わさ戦場に引き出される時代がすぐそこまで来ているというのに、彼らにはそんなことにはまったく気づかずにいるのだろうか。それとも自分たちには起こりえないことだとたかをくくっているのだろうか。
Save0005R.jpg
 私の1942年4月の国民学校入学式を思い出している。アジア太平洋戦争のさなかであった。その時の学級写真が手許にある。私が所有していたこの頃の写真はみな空襲で焼失し灰になった。これは数年前友人から借り受けてコピーしたものだ。この写真を見ると、小さな私が体験した本来多様で豊かであるべき人間性を押しつぶし画一的なものにつくりかえ、「少年兵」予備軍として洗脳されていったあの時代を思い起こす。
 この前年、1941年12月8日にこの国はアメリカに宣戦布告し、戦争は新しい段階に入っていた。緒戦は真珠湾奇襲攻撃、シンガポール占領と勝利に次ぐ勝利で、国民の気分も高揚していたのではないか。背景の巨大な日の丸の旗がその雰囲気を表しているようだ。子どもたちや親たちの服装や表情にもそれが読み取れる。誰も戦争が厳しい負け戦になり、自分たちが再度徴兵されるだけでなく、子どもたちが「少年兵」として戦場に駆り立てられる時代が到来するとは想像だにしていなかっただろう。
 写真に見られるいくらかの和やかさとは裏腹に、学校内の支配と統制は厳しいものだった。記憶に残る最大の苦難は無数の儀式であった。いったい儀式が何回あったかを今数えることはできないのだが、記憶に残るだけでも天長節、地久節、明治節、紀元節、大詔奉戴日、新嘗祭、神嘗祭、もっとあった筈だ。 大詔奉戴日は毎月8日に儀式が催されたはずだ。これらのうちのかなりの部分は今も名前を変えて国民の祝日として残っている。
  式次第は正確には覚えていない。屋内運動場に整列させられ、まず皇居遙拝が行われる。私のまちからみて東京は南西の方角だったから、号令に合わせて一斉にそちらの方向に向き、最敬礼するのだ。君が代斉唱。それから校長が登壇し、壇上正面に作り付けられた小さな扉を開ける、天皇と皇后の御真影(ただの写真)が奉安殿から移されてあらかじめ設営されている。教頭が教育勅語の巻物を載せた紫色の袱紗で覆われた黒塗の盆をうやうやしく捧げ持って登場し、壇上にいる校長に渡す。校長は巻物を広げ、朗読する。「ギョメイギョジ」で終わりだが、巻き戻し後ろの御真影の扉を閉めるまでは敬礼の姿勢を崩せない。そのあと式歌斉唱、校長の訓示もあったと思う。
 この一連の所作を正確に観察したことはない。敬礼の姿勢を保持していたから、顔を上げて観察などできなかったのである。天皇の御真影を背景に勅語を読む校長はその間だけ天皇の代理でああった。顔を上げて凝視するなど不敬なことであった。
 直立不動の姿勢が強要され、厳格な最敬礼と敬礼の仕方が厳しく教え込まれた。笑ったり私語をかわしたりしようものなら教師から容赦のない体罰が加えられた。想像してみてほしい。まちの通りで遊びに明け暮れていた子どもたちに対する突然の強制がどれほどまでに過酷なものだったか。笑い転げて遊ぶ子どもに笑いを禁じるのはなんと非人間的なことだったか。あんな田舎のまちでも天皇は「現人神」であった。私は早生まれで入学したこともあって身体が小さく虚弱で神経質だった。緊張にたえられず直立のまま何度も失禁した。
 教育勅語と君が代は愛国心の涵養のためのものであるより先に、子どもを支配し統制するための道具であり象徴であったと私は考えている。教育勅語や君が代の意味を教師が説明してくれた記憶はない。そのままを受け容れること、ただ暗記しその通りに歌うことを求められただけであった。
 校長は「ギョメイギョジ」と読み上げて終わった。その意味はなんだろうといつも不思議に思ったものだ。教師に聞いたら、説明より先に不敬をなじる怒声、場合によっては体罰が飛ぶ雰囲気が感じられ、聞けなかった。その意味を知ったのは最近のことだ。天皇の署名と印のことで、校長が読み上げた巻物にも「御名御璽」とあるだけだった。天皇の名を代読することなど畏れ多いことでありえなかったのだ。天皇の勅諭は解釈を超えた侵すべからざるものだったのだから。私はそのことをなんとなく雰囲気で感じ取っていたのだろう。(2017.4.29 旧天長節)

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.01