1945年7月15日

 1945年7月15日、またこの日がめぐってきた。この日が来ると私は衰え始めた脳髄から記憶を絞り出し、反芻し、確認する。時々新しい写真や資料が加わり、記憶の嵩は膨らみ精緻になる。そして憤激の気持ちが年ごとに高まっていく。

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 添付した写真の1枚は空襲の数日後におそらく新聞記者が撮影したものと思われる。私の家近くの惨状を写している。この写真から伝わってくる雰囲気は鎮魂の場そのものだ。静寂が支配している。その通り、ここは葬送の場所であった。いったいこの場所で幾人が殺されていただろうか。それを数えた正確な記録は残念ながら存在しない。
 私の祖母を含め住民が3人、逃げ遅れて死んだ。消火のために駆けつけた3台の消防車は火の勢いになすすべもなく、消防士たちは火に巻かれて死んだ。防空壕を脱出して振り返ってきたあの火の色と勢いは私の脳髄に今も深くすり込まれている。三洋館裏の空き地に野積みにされていた軍需物資、ドラム缶にロケット砲が命中し炎上したのだ。バケツリレーと火たたきしかできなかった町民の消火活動はまったく機能しなかった。どこからともなく、防空壕にいたら危ない、ここから逃げろという声が上がった。
 この焼け跡には多数の兵士の死体もあったという。祖母の遺体を荼毘に付すために翌日にこの場所に立った父は、兵士の死体を見たという。おそらく爆風でどこからか飛ばされてきたものだろう。兵士の死体は当然のことながら軍隊が片付けた。その記録はおそらく焼却されてしまったはずだ。結局戦死者数はわからずじまいである。
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 この頃多数の徴用船が湾内に停泊していた。ほとんどが漁船で、捕鯨船や曳船、艀の類いもいたようだ。その状況は米軍の写真から確認できる。攻撃を回避するためにこの日港の外に散開した船の数を数えると優に100隻を超える。前日14日の空襲は港湾と徴用船に集中したが、その際に米軍機のガンカメラ(戦果を確認するために銃に取り付けられたカメラ)が私のまちを撮影した写真をインターネット上で1枚だけ見つけた。写っている地形から見て柳田埋立地に対する早朝の攻撃の写真と思われる。柳田埋立地の西側には15日よりも多くの徴用船が散開している。
 あの日私は、米軍機が最終的に去ってから、防空壕の上にのぼり攻撃されて沈没する徴用船を眺めていた。木造の漁船など吃水線のあたりを銃撃されて穴が開くと簡単に沈む。船は緩やかにかしぎ沈没していった。かろうじて海に逃れることができた乗組員は岸からこぎ出した小舟に救助されていた。
 一体、あの日にいく隻の船が沈められ、どれほどの数の乗組員と兵士が殺されてのだろうか。その数字を考慮にれると、戦死者の数は増え、漁民たちの生産手段も海の藻屑となった。そのことを思うと、私はあのような小さなまちでも想像を超えた戦争の悲惨が起きていたことを思い、空恐ろしくなるのだ。

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 もう一枚の写真、これも米軍が撮影したものだ。収集している人から提供を受けた。私の家、しかもまさに燃え上がろうとしているその瞬間を写し出している。この写真を拡大して眺めたとき、私は落涙した。これはまさに、私の家族が死に、私が生き残った分岐点を残酷にも写しだしていた。私と私の家族を貧窮のどん底に突き落とした瞬間がこのときだった。
 記憶喪失症に罹ったかのように、この日以前の記録や写真はすべて私の許から消え失せた。北海道根室町本町3丁目9番地、これが私が住んでいた番地である。柳田藤吉が私財を投じて建設した埋立地の番地である。私が子どもの頃、ここは共同倉庫株式会社の赤煉瓦倉庫をはじめとして沢山の倉庫が建ち並ぶこの町の商業的繁栄を象徴する場所だった。いまではこの埋立地も戦後の安易な埋立によって昔の形がわからなくなり、水産加工施設の廃墟ばかりが目立つさびれた場所になってしまっている。いうならば、このまちの凋落の雰囲気を最もよく伝える場所になってしまったのだ。今この町に住む人たちのほとんどはここはこのまちの商業活動での繁栄の象徴だったことなど知りはしない。私の家があったあたりは賑わった通りだった。旅館が2軒、通い船の事務所、多数の海産物仲買人の事務所と住居、海獣処理業工場やその業者の事務所等がたちならび、波止場から続く坂道を上ると目抜通である花咲町通に続く。坂を登り切ると本町の通りと交差する。右に折れるとこの町一番の二美喜旅館、柳田本店と柳田家の邸宅があり、左に折れると商人たちの事務所を兼ねた瀟洒な住宅が続く。今ではその面影を探し求めても無駄なことだ。でもそれは、私の記憶が消え去らない限り、この町並みも人々も確実に存在したのだ。
 
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 3枚目の写真、これも米軍が撮影したものだ。私の当時の通学路であった町並みと母校が攻撃によって大炎上する様子が撮影されている。右下隅に柳田家の大きな屋敷が写り、その真下が私の家だ。家は写っていないが、黒煙の状況から見るとすでに炎上しているようだ。左上の黒煙は炎上中の母校花咲国民学校だ。
 この町並み、鳴海町と松が枝町では投下された爆弾の直撃で多くの町民が殺された。この写真には明らかにその攻撃の結果も写し出されている。悲惨なことだ。この地域の中心は戦後公園になり、その一隅に数年前根室空襲死者の慰霊碑が建立された。私の祖母の名前も彫り込まれている。

 米軍機が航空母艦に帰投した時に出す戦果の報告書を見ると、どれも一様に倉庫と港湾設備、船舶にそれ相当の損害を与えたと報告している。しかしながら、この写真を見ても、重要な軍事拠点と誤認され攻撃された私の母校を除き、海岸沿いの倉庫には爆弾は一発も当たらず、爆弾はすべて住宅地に落ちている。柳田埋立地でも同じだった。アメリカの兵士たちの技量不足の表れと、私はある時まで考えていた。学びが深まるにつれて、私の考え方は変わった。東京を空襲するにあたり、カーチス・ルメイは木造住宅が密集する東京の下町に対する無差別爆撃を正当化する屁理屈と戦術を編み出したが、ルメイ以後アメリカの誤爆の言い訳はもはや通用しない。日本だけでない、朝鮮半島でも、ベトナムでも、アフガニスタンでも、イラクでも非戦闘員を殺したことに対する言い訳は通用しないのだ。
 7月14、15日のアメリカ機動部隊の攻撃の目的は何だったのか。当時の海軍作戦部長キング元帥が議会に対して行った報告の一部が、戦史叢書に紹介されている。紹介しておこう(防衛庁防衛研修所戦史室『北東方面陸軍作戦ー千島・樺太・北海道の防衛ー(2)』戦史叢書、東京、1971年3月、378ページ)。

 「有史以来未曾有の最大結集海軍兵力から成るホルジ海軍大将の第三艦隊高速空母部隊群は、沖縄作戦の支援任務に次いでレイテ湾で約3週間の補給を完了したのち、7月1日同湾発、日本に向かい北上した。この大艦隊の任務は、日本艦隊の撃滅を完成し、日本の戦争遂行能力に寄与する一切の産業及び資源に対する侵入前破壊作戦を実施し、かつ日本人の戦意を低下させるための最大圧力を日本人の上に維持することなどであった。
 ホルジ海軍大将は7月14−15日、本州北部及び北海道南部を攻撃する予定をもって北に移動した。空襲により鉄道連絡船5隻を沈め他の4隻に損傷を与え、もって北海道及び本州間の重要水運施設に重大な打撃を与えた。この時もまたわが飛行機はほとんど空中での抵抗をうけなかった。(以下省略)」

 明らかなように、この有史以来最大の海軍兵力は、日本上陸によって最終勝利を目指すために派遣されたのであった。徹底的に破壊して戦意を低下させることが狙いであった。無差別に攻撃することなど、この目的を遂行するためには、至極当然のことであったろう。

 この文章を読んで疑問に思ったことがある。この「有史以来未曾有の最大の」海軍兵力が、日本の息の根を止め降伏に追い込むことを目標にしていたのであれば、本州の中枢部攻撃に直進したはずだ。ところが艦隊は北東を目指した。転進だったのかどうかはこの訳文ではよくわからない。私はヤルタ会談でのルーズベルトとスターリンの密約が背後にあるような気がしてならないのだ。
 1944年2月4−11日、アメリカ、イギリス、ソ連首脳はヤルタで会談し、ナチスドイツ敗北後の処理について意見交換した。その際にソ連はドイツ敗北の3ヶ月後に日ソ不可侵条約を破棄して対日参戦することを約束した。その際にルーズベルトがスターリンと交わした密約がある。そこには日本が敗北した後の樺太、千島列島の領有のみならず、さまざまな軍事的支援の取り決めも含まれていたのではないだろうか。アメリカはすでにレンド・リース法によって連合国に膨大な軍需物資の支援を行っていたが、ソ連に対しても極東地域で十分な支援が行われていた。ソ連の対日参戦はアメリカの軍需物資供給によってはじめて可能になったのだ。樺太、千島列島に侵攻するために使った船舶、上陸用舟艇など、ソ連には準備がなかったはずだと思う。
 7月14−15日の空襲はソ連の参戦を支援する意図を持って行われたのだろうか。当事者のルーズヴェルトは4月に死亡し、副大統領のトルーマンが大統領に昇格していた。よく知られているように、トルーマンは1947年3月にいわゆるトルーマンドクトリンを宣言し、イギリスに変わってギリシャ、トルコに対する軍事援助を開始した。この宣言はソ連型社会主義の拡大に干渉するというアメリカの政策基調の出発点となった。
 トルーマンがこのようなソ連認識を私のまちの空襲の頃から持っていたかどうかについては確証がない。持っていたとすれば、あの空襲にはすでにソ連に対する対抗戦略の意図が潜んでいたかもしれない。
 いずれにしても、私のまちの空襲には戦後世界体制の編成に対するアメリカ、ソ連の意図が隠されていたといえるだろう。世界政治の対抗に翻弄され続けた私のまちの運命はすでにこの時から確定していたのかもしれない。私と私の家族は戦後政治の犠牲であったといえるかもしれない。

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