祖母の骨を拾った日ー1945年7月15日ー

 7月14日、JNN報道特集で戦争被害者の遺骨が国の内外で放置され、死者たちの尊厳が冒されている現実が特集されていた。感動した。それに触発されて私も9歳の時の体験を綴っておくことにした。

 1945年7月15日に私のまちを襲った空襲の翌日、父は一人で家の焼け跡に出かけ母の焼死体を確認した。町営の火葬場に遺体を運び込まなかったのは、損傷があまりに激しかったためかそれとも火葬場の能力を超えるほどの数の遺体が持ち込まれていたか、とにかく事情があったのだろう。検屍にきた警察官の指導でやむなく焼け跡で荼毘に付すことにしたと考えられる。
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 燃えさかる火炎の中でなんとか救出しようと狂ったように足掻いたであろう父の心情、生みの母を自ら焼かなければならなかった苦悩、そのことについて父は一言も語らなかった。父とそのことについて話す機会も父の早すぎる死によって失われてしまった。いまも私はその光景を想像して苦悩する。そのことは到底まともな心情で書けるものではない。想像することさえ父の苦しみを冒涜するように思えてならないからだ。しかしこれがいまも繰り返されている戦争という名の殺戮の日常なのだ。
 父が母を一人で焼いた日の翌日、疎開先の知人の牧場から骨を拾いに出かけた。9歳の私でもまちの中心部が見渡すかぎり焼き尽くされ残っているのは商家の土蔵と金庫だけという風景をみて驚愕した。私の家だけが燃え残って祖母もその一隅に生き残っているのではというあまりにあどけない願いは家に近づくにつれ消え去っていった。大火災で熱せられた地面は靴底を通してまだ感じ取られた。
 トタン板の上で焼かれた祖母の骨を拾った。骨壺もなく近くで拾った焼けて赤茶けた石油缶に骨を入れた。入りきらないのでやむなく父が頭蓋骨を割った。脳みその塊が炭化していた。
 地域の壕で死んだ若者が発見された。頭部だけが焼け焦げ、上半身は着衣燃えて裸であった。おそらく壕が崩れて火が消えたのだろう。青年の父は遺体を抱き寄せ悲嘆にくれていた。祖母を焼くのにつかったトタン板の上に焼け残りの木材が遺体を包み込むように積み上げられた。私はこの儀式、人間の屍を焼く情景を凝視していた。この情景の記憶は、いまでも鮮やかに甦る。不思議なことに、あの時あの場所に漂っていた筈の屍体を焼く独特の匂いの記憶がまったくないのだ。あの日まちじゅうの至る所が焼き場であった。多くの家畜も逃げ遅れて焼け死んだ。まちじゅうがあの匂いで満ちていた。あの日にはとりたてて記憶されるべきものではない日常の匂いだったのだ。
 骨を拾った後に残った灰はどうしたのだろうか、私は時々記憶を反芻して確認しようとする。海に撒いたという記憶はない。使用したトタン板はすぐに若者の荼毘に使われたのだから、現場に撒かれたに違いない、あらゆる家財が見事なまでに焼き尽くされていた。三輪車をはじめ沢山のブリキの玩具、父の使っていた大工道具以外は真っ白な灰だった。沢山あったレコードや書物も灰になり空中に舞っていった。人間を焼いた残りの灰がその場に捨てられても何の異様さもなかったはずだ。
 私があの場所を墓地と呼ぶのはそのためだ。あそこには祖母の遺灰が、そしておそらくはあの若者のそれも撒かれた場所なのだ。少年時代の私があの場所に近づけなかったのは、楽しかった少年時代の記憶の多くが懐かしい家族の顔が、あの時を境に消し去られたことへの苦悩がそうさせただけではない。それは正真正銘の墓地なのだ。

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 10数年前、半世紀以上も訪れることがかなわなかった本町埋立地に立った。埋立地も波止場も不格好に埋め立てられ、江戸時代以来のあのまちの繁栄の残影もすべて消えさっていた。かって赤煉瓦倉庫が建ち並んでいたあたりには水産加工場が建てられてはいたが、その多くが廃墟となっていた。その後何度か訪ねる機会があったが、廃墟の風景はさらに磨きがかかっているようだ。私の生家のまわりについては私の記憶の奥底にこびりついている風景を確認できた。三洋館跡、その真向かいの児童遊園地と
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地域防空壕跡、火を逃れるために駆け上がった坂道もそのままだった。埋立地から弥生町舟入墹にいたる漁師町は海岸線に波消ブロックが積み上げられて昔の姿を思い起こすものは何も残ってはいなかった。
  私の家そして隣のNさんの家の跡には新しい家と事務所が建っていた。Nさん宅との間にあった勝手口に通じる細道も確認できたし、父が家の裏で防空壕を作ろうとして掘り始め岩盤のあまりの堅さに諦めた場所も私の記憶通りに残っていた。
 人の屋敷のまわりを土地のものでもない私がうろつくのは不謹慎なことなので、了解を取るのにその家のインターフォンを押した。主人とおぼしき男性に、以前このあたりにすんでいたものですからお宅のまわり見せて頂いていると挨拶した。怪訝そうな表情でこのあたりは工場ばかりで人家はなかったですよと返され、私はそれ以上私の事情を説明することをやめた。ここで祖母の死体を焼いたなどと話せるような雰囲気ではなかった。この人は自分の住む通りの過去についてまったく知識がなかったのだ。
 当時のあのまちの人口は2万人ほど、まちの中枢は空襲で焼き尽くされ破壊された。殺された人の数は町民だけで200人あまり、徴用船の乗員、乗客の死者を加えるとその数はさらに増える。第七師団や暁部隊の戦死者の数もかなりのものだった筈だが、今となってはわからない。築港工事に動員されていた筈の朝鮮人たちに被害は及んでいなかったのだろうか。あのまちは殺された多くの人たちの灰の上に再建されたのだ。それは私の生まれ育ったあの戦争を生き延びた最後の世代である私たちが死んでも、そのことが語り継がれ継承されてほしいと切望する。
  私の体験にとどまらない。本土決戦を叫んで戦闘をしかも敵側の一方的な戦闘を国内に呼び込んで無差別の殺戮が展開された。このことによっていったいどれだけの人が殺されたのか、明確な調査してほしい。前の戦争の最も残酷なこの結末についてせめて教育し啓蒙が続けられてほしい。この国が墓所の上に再建されたことが忘れ去れるようなら、この国が人類の歴史に名誉ある地位を得ることなどあり得ない。

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