1945年7月15日(1)ー私の生をわけた日ー

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 この日早朝空襲警報発令のサイレンが響きわたったとき、敵機はすでに私のまちに機銃掃射を浴びせ爆弾を落としはじめてていた。前日も空襲があり港の設備や散開する徴用船に対する執拗な攻撃が繰り返されていたから、この日も早朝から空襲があるものと予想していた。
 あの日のいでたちを私はこの年齢になっても鮮明に思い出せる。ゲートルを巻き、水筒、それに米と大豆を煎った保存食をドロップの缶に入れてたすき掛けにして持ち、頭は戦闘帽に防空頭巾という重装備だった。カーキ色、いわゆる国防色の通学服の胸には住所と氏名、生年月日、保護者の名前、血液型を書きしるした布片が縫い付けられていた。「少国民」の典型的な姿ではあった。そこには少しも子どもらしさを感じさせるものは何もなかった。
 私は私の「宝物」も持ち出したかった。鉛筆やノートの類いだったが、いろんな人たちから頂いて使わずにいたものだ。ランドセルにいれすぐに持ち出せるように玄関の上がりがまちに揃えた。親たちにこんなものを持って行くことはならぬとこっぴどく叱られた。9歳の男の子の無邪気な願望など通るような時代ではなかったのだ。私の宝物はその思い出とともに跡形もなく燃え尽きた。
 あの日私と私の家族を襲った災厄は今も私の心中に傷として深く突き刺さっている。だから戦争はいつ終わったかと問われるなら、私は今でも続いていると即座に答える。あの空襲の日の現実、そしてあの窮乏の日々によって、私は戦争そのものにとどまらず、あの戦争を画策したものたち、責任をとらなかったものたち、利益を得たものたちに対する憎悪は死に至るまで消えることはない。。
 この日は私にとって慰霊の日にとどまることは決してない。

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