1945年7月15日(3)ーいつのまにか最前線の「少年兵」にー

  いまだに鮮明に残る国民学校時代の記憶がある。おそらく4年生の頃、空襲の直前の頃のことかと思う。教師(あるいは配属将校であったかもしれない)が樫(カシ)で出来た短い棒を生徒に与え、次のように命令した。この棒は手榴弾と同じ重さだ、むこうに引かれた線を超えたあたりに敵がいると思え、あそこまで投げられなければ爆発で自分が死ぬ、投げてみろと。私が投げたこの手榴弾もどきはあわれにも無残にも線の手前に落ちた。「お前は死んだ」、身体が小さく握力の弱い私は何度投擲しても届かなかった。そのたびに教師は言った、お前は死んだ。この記憶をその頃の同級生に聞いても誰も記憶にないという。彼らが記憶していることが私の記憶にないことも多いから、彼らの記憶にないことで私の体験が否定されることにはならないだろう。

 あの時代、 本土決戦が叫ばれてその準備に狂奔し始めた時代は開戦時の引き続く大戦果の報道に熱狂した状況とはまったく違っていた。若者や子どもをめぐる状況、教育の現場は激変した。
 兵士不足は深刻になった。制空権、制海権を連合国側に奪われて輸送船の大半を失っては国外に展開している兵力を呼び戻すこともできず、国内で新たに招集する以外に方法はなかった。兵士の不足に愕然として、なりふりかまわぬ徴兵がはじまった。
 まず兵役対象者の年齢を引き上げることから始まった。これによって招集の範囲は体力十分の若者からくたびれた中年に及ぶことになった。2度目の召集令状が増えたのは当然の成行きだった。私の父は私が生まれて間もなく徴兵され、中国大陸に派遣されている。輜重兵だったと聞いている。父が2度目の招集を免れたのは、軍需産業(造船所)で働いていたからであろう。戦後に作られた軍人恩給の基準に従えばいわゆる準軍属だった。
 父の話していたところでは、そのころ兵役逃れのためににわか船大工が増えたという。理髪店の親父が剃刀やバリカンしか使ったことがない手で突然鉞やチョウナのような重くておよそ剃刀のような繊細さが微塵も感じられない道具を高い足場に登って使い始める状景はとても想像できないだろう。怪我が増えたと父は言っていた。
 大学生に認められていた徴兵猶予も停止された。学徒出陣の悲劇の始まりである。朝鮮人や台湾人の徴兵を開始したのもこの頃ではなかったか。
 体力のありそうな者を根こそぎ徴兵するのだから、軍需産業に必要とされる労働力の供給は逼迫した。その上、米軍の上陸侵攻に備えた基地建設が急がれた。労働力不足を補うために駆り出されたのは、中学、高等女学校、専門学校の生徒たちであった。無償の労働を強制されたのだ。
 私のまちでは中学、高等女学校の生徒たちは計根別の陸軍飛行場の建設に駆り出されていた。この頃からどこの校舎もからっぽになっていた。多くの生徒たちが勤労動員された現場で空襲に遭い殺された。広島でも爆心地付近で勤労動員で駆り出された中学生が殺された。当時の私より数年上の少年少女たちであった。
 基地地や要塞の構築のために朝鮮人が半ば強制的に駆り出され、それでも足らずに中国人、さらには囚人さえが過酷な労働条件で使役された。その最もよい例が本土決戦の要として建設された巨大な地下壕、松代大本営の建設である。この要塞は朝鮮人徴用工によって建設されたという。連合軍が東京湾に侵入したとき、天皇と三種の神器、大本営、公共機関の中枢をここに移すことが予定されていた。天皇の御座所を朝鮮人徴用工が建設する、これこそまさにこの国の帝国主義を象徴しているといえる。私はここを訪れてみたいと願っているがいまだにその機会が与えられずにいる。
 都民を捨てて長野の山奥に移動するという光景を想像するだけで慄然とする。国民は本土決戦は国体護持が目的で都民はうち捨てられるだけというこの非情な計画を知ることはなかっただけに、私はその感を強くする。沖縄戦もこの地下要塞の完成までその終結を引き延ばされたというから、本土決戦の路線は国民に限りなく犠牲を強いるものであった。

  手榴弾投擲訓練の話に戻ろう。本土決戦を叫び国民を総動員し始めたこの時代は無秩序な何でもありの異常な時代になっていた。敗北は明らかだったのに国体護持という訳のわからぬ口実で自己保身のために国民に犠牲を強いることに権力者たち何のためらいもなかった。だから9歳の子どもに手榴弾を持たせて敵の戦車や装甲車に立ち向かわせることなど何の呵責もなしに命令したに違いない。沖縄戦はそのことを示してくれている。
 いずれにせよ少国民を少年兵として登場させる条件は始まっていたのだ。本土侵攻が現実のものになれば、それはすぐにでも現実のもになるはずだった。

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