私の1945年8月15日ー8月に思う(2)ー

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 この日のことはよく記憶している。その頃私は花咲国民学校4年生で9歳であった。
 あの日のちょうど1ヶ月前の7月15日、アメリカ軍艦載機の銃爆撃の中を逃げ惑い、かろうじて生き延びた。家を焼かれ家財をすべて失った。文字通りの着の身着のままの状態であった。家族の1人も失った。絶望とか悲嘆にくれるなどという表現では説明し尽くせない状態だった。起きたことが現実とは到底思えず、家族は皆ぼう然とした状態だった。
 通っていた国民学校も全焼し、頼れる親戚や知り合いもみな家を失ったいた。雨露を凌げる場所がなく途方に暮れていた。北斗国民学校の用務員さんの好意で、運動場体操用具を格納する小部屋にこっそり寝起きさせてもらうことができた。
 この部屋の入口の引き戸には近くに落ちた爆弾の破片で切り裂かれた痕が刻まれていた。爆弾は爆風によって殺傷・破壊するだけでなく、鋭いナイフのように飛散する弾片によって人間を殺傷するように設計されている。ベトナム・ホーチミン市の博物館にもこの鋭利な弾片が山のように積まれていたのを見た。ベトナム戦争でもこの爆弾は使われていた。アメリカはこの種の殺傷能力の大きい爆弾をヨーロッパ戦線でも使ったのだろうか、アジアでだけ使ったのではないかと思いをめぐらせたものだった。
 近くの憲兵隊司令部の前で大人たちは「玉音放送」を聞かされたようだった。そこから帰ってきた父は、一言「戦争は終わった」と私たちにつぶやくような声でいったような気がする。無学の父には理解できなかった筈で、憲兵隊の幹部が解説したと思う。私たちの戦争は7月15日にすべてを失ったときにとっくに終わっていた。ああこれでもう空襲はない、ゆっくりと眠ることができる、アメリカ軍の艦砲射撃も上陸もない、戦闘に怯えて暮らすことはないのだという安堵の気持ちとある種の不思議な解放感に満たされた。いま思い起こして、その後に私に開かれた自由への道は、確実にあの日から始まった。
附記】あの頃の私と家族にかかわるものはすべて焼き尽くされ、空襲の時にも防空頭巾の下に被っていたおかげで残された戦闘帽があるだけだ。これが当時の通常の通学の帽子だった。戦後もかなりの期間かぶっていたと思う。(2016.8.25)

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