1976年12月、アウシュビッツ強制収容所への旅 ー解放70年を記念して(1)ー

 ボン大学に客員として滞在していた私は、以前から暖めていた少々冒険的な旅行計画の実現に動き始めた。ボンを起点に一筆書きのように東ヨーロッパ社会主義国を汽車で旅するというものだ。旅行社に相談したところ、そのような乗車券は発行できるという。
 東ドイツに入ってエルフルト、ヴァイマール、ライプチッヒ、ドレスデンと宿泊してポーランドにはいり、クラクフに宿泊、そこから北上してワルシャワへ、ワルシャワから西に走り、東ベルリン、西ベルリン、そしてボンに帰るという旅が一枚の切符に見事に収まった。当時は東ドイツ、ポーランドを旅行するにはまず滞在を指定された都市の指定されたホテルを予約し、それからビザを申請するという手順で、旅程が確定するまでにかなりの時間を要した。外貨獲得のためか、ホテル代も西側旅行者レートとでもいいうべきか、かなり高く設定されていた。
 私の旅の目的は、すでにささやかれ始めていた東ヨーロッパ社会主義の危機の様子をほんの少しでも体感してくること、それともう一つ、ポーランドのクラクフ近郊に残るナチのユダヤ人ほかを強制収容し殺戮したアウシュビッツ強制収容所を訪ねることだった。
 とにかく寒い冬だった。ドレスデンからクラクフ行きの列車は「完全冷房」でだったが、東ドイツで働くポーランド人ですし詰め状態、それぞれが発する体温で結構暖め合えるものだ。ガラス窓は外の換気で凍り付いて氷の華が咲いていた。北海道の冬を思い出していた。厳しい寒さに迎えられて降り立ったクラクフも懐かしい臭いに満ちていた。その臭いの意味を理解するのには、さほどの時間を要しなかった。石炭を燃やしたときのあの独特の臭い、北海道で生まれ生活した私には冬の日常であった感覚を思い出していた。
 塵芥を含む大気はどんよりとよどみ、冬空の陰気さを一層際立たせる。私が暮らしていた頃の北海道と同じ大気だ。ホテルに着くなり、ホテルの従業員が部屋を訪ねてきて、外貨とのヤミ交換を求めた。そのレートたるや、想像を超えていた。噂に聞いていたとはいえ、社会主義ポーランドの惨状を垣間見て、気分はふさぐばかりであった。国民を闇屋に成り下がらせる社会主義とは一体何なのだ。
 クラクフ旧市街の散策を翌日に済ませ、次の日の早朝、タクシーを借り切ってホテルを早朝に出発した。到着の夜の闇取引をしたので私の財布は現地通貨で膨れ上がっていたから、タクシーを一日借り切っても十分に払えると思った。ところがタクシーでも外貨での支払いが求められのだから、もう不快感を通り越してポーランド国民への同情にかわり始めていた。

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