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  私は港町で生まれ、いつも船を見て育った。いろんな船を見た。大小の汽船、機帆船、漁船、捕鯨船、艀等、軍艦もやってきた。冬になると海が荒れ、アムール川に発する流氷が港と海峡を埋め尽くすと船は港から消え失せ、見ることはなくなった。翌年の遅い春がきて流氷が流れ去ると、船はまたやってくる。船を眺めながらその頃の私は何を考えていたのだろうか。船が結びつける外の世界を夢想していたのかも知れない。
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 こんなことがあった。国民学校3年生の夏ではなかったろうか。港内に停泊する商船を波止場の先に立って眺めていた。ボートでその船に帰る船員が声をかけてくれた。船を見たいなら連れて行ってあげる、と。客船だった。赤絨毯が敷かれたロビー、磨かれた真鍮製の手すりが今でもはっきりと記憶にすり込まれている。子どもの私にはすべてが大きく豪華に見えた。今考えると、あの船は徴用船だったに違いない。北の海のどこかでアメリカ潜水艦に攻撃され沈められ、あの親切な船員も船と運命を共にしたのかも知れない。
 時代の急変動に翻弄され続けたあの港に入港する船を眺めながら生き体験したことにさまざまな思いがよみがえる。とりわけ戦争も終わりの頃の体験を思い起こす。いま区切りをつけてまとめ上げなければならないと決意している。
  私の父岩次郎は腕の良い船大工だった。私は子どもの頃から父の仕事ぶりを眺めながら育った。いまでも船を眺めることが好きだ。特に木造の舟に出会うと、父の働く姿を思い出す。父は私が生まれた頃、中国大陸への侵略に徴兵された。父の年齢からいって本来ならもう一度徴兵されたはずなのにそれを免れたのは、あのまちの零細造船所が合同して設立した造船所で働くことになったからだろう。この造船所は木造船標船建造の軍需工場であった。新造船以外にも、おそらく北方で任務に就き被弾して帰港した徴用漁船の修理も重要な仕事だったに違いない。どんな仕事をしたのか、父から話を聞く機会は父の死によって失われた。それだけに、私は父から聞き出せなかった分も含めて、あの港を寄港地として犠牲となった多くの徴用船とその船員たちが被った苦難と悲惨な運命を調べ、書きしるしておきたいと考えたのだ。
  私のこの仕事は過去への感傷をまとめ上げたものでは決してない。徴用船の悲劇はあの戦争のもっとも犯罪的な側面であった。兵站の十分な体制もないまま無謀な戦争に乗り出し、兵士だけでなく多くの船員や漁民の生命をもてあそんだ。靖国に祀られる英霊はこの無謀さの犠牲になった兵士たちだ。兵士でもないのに駆り出されまきぞえになった人びとの犠牲は顧みられることもなく今も海底に眠っている。その結果が悲惨なものであったとする感傷に突き動かされない限り、追求し真実に接近する気力は生まれない。いくらかは戦争を体験したものが書く仕事の意味はそこにある。そのことを是非とも理解してほしい。
 あの戦争が終わって70年以上も経っているというのに、この問題の検証が十分にされているとは到底言いがたい。それどころか、検証もないのに、戦争への参加を煽り立て、それに積極的に関与することを表明する動きが具体化し始めている。私のこのちっぽけな仕事でもにわかに重要性を増してきたように思われる。あの無謀な戦争に国民を巻き込んでその惨禍を拡大した責任が解明されないままで、ことが進むことに私は反対する。
 集団的自衛権をめぐる議論のなかで、自衛隊が担うのは「後方支援」であって前線での戦闘行為ではないことが強調され、「後方支援」が戦闘行為にあたらないという妙な雰囲気が醸成された。「後方支援」と表現しようと「兵站(へいたん)」「ロジスティックス」と表現しようと、これが現代の戦争の遂行にあたってその成否、勝敗を決する最重要の点であることを曖昧にした議論ではないか。前の戦争では指導者たちはそのことの意義を軽視し、国民を戦争に巻き込んでいった。徴用船問題はその最も重要な側面であった。船乗りたちや漁民たち、徴用船を送り出した港町や沿岸部のまちは前の戦争の犠牲者だった。
 過去に庶民が戦争によって受けた苦悩の現実から教訓を真摯に学ぶことをしなければ、政治家たちの決断は、過去に犯した過ちを繰り返して、いやそれどころかそれをさらに拡大して国民に塗炭の苦しみを味合わせることになるだろう。
 昨年11月に『リーラ(遊)』第9巻(戦後70年と宗教)のために書いた仕事を、PDFファイルにしてブログに収録します。昨年12月にこのブログに収録した「戦時下に出会った朝鮮人たちー「私の戦争」準備ノートー」のエッセンスをまとめたものです。
 「私の戦争」シリーズは、完結までにあと何年を要するかわかりませんが、切れ目なく書いてまとめて公表するつもりでいます。読んで感想を寄せて頂くことが私には最高の支援になります。よろしくお願いいたします。
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  この仕事はこの数年書き連ねている「私の戦争」と題する連作の準備ノートである。主な論旨は「朝鮮人「強制連行」問題を学び直すー北の地方都市での体験から見えてくるものー」として『リーラー「遊」』VOL.9(文理閣、2015年11月)にすでに発表してある。
 歳を重ねるとともに筆は重くなり、運びも遅くなる。発表が遅れたが、このノートのほうが戦争体験に関わって詳細に書き込んでいる。これからの仕事のために思いついたことを「補論」として書き加えたので、それも含めて読んで誤りの指摘やご意見を頂きたい。いずれ電子書籍化するときにもう一度大胆に手を入れるので、その際に反映させたいと考えている。
 「私の戦争」という表題から、自分史を書いているのではと誤解されることも多い。しかも記憶と推論で書いているのだから、学者にあるまじき仕事ぶりと批判されることも十分に覚悟している。私は自身の戦争体験を世に残したいとという意図を隠すつもりはない。だが、この仕事は通常言われる学会的学術研究とは違う私なりの表現方法の模索であることにも是非とも注目してほしいのだ。
 研究とは実証や体験をふまえて可能な限り時代全体の認識に近づこうとする試みであることは、言うまでもないだろう。私もそのように努力しているつもりだ。ところが、いざまわりを見渡してみると、私のような態度は少数で、他人と区別されて細分化された課題を追い求めるような研究ばかりがはびこっているように見えてならない。統計的実証が、あるいは公表されている文献資料が現実の時代や歴史をどの程度に反映しているのかも深く考えることもない、目指す時代認識や歴史認識への展望が示されることもないただの実証分析だけが氾濫している。これではたして社会科学は時代の要請に応えられるのだろうか、このように考えを進めると、私の孤立感は深くなるばかりだ。
 最近の論文や出版物の奔流の中に立つと、孤立感に襲われるだけではない。戦争責任を論じたものを読むと、些細な体験にもとずいて戦争責任を追及する私の態度など、あっさりと無視されるような不安に襲われる。メディアに積極的に登場して乱暴な論理とおおざっぱな規範を声高に提示する人たちには、こんな仕事など蹴散らして進むほどの障碍とも感じられていないだろう。こういう研究・執筆態度が横行し君臨することに、私はは空恐ろしさを感じる。左翼やリベラルと自称する人びとの態度や主張にも違和感を覚えることがある。自ら学んだこともない借り物の言葉を乱暴に投げ合い切り結ぶ姿を見聞すると、乱暴な風潮は政治的立場を問わず蔓延しているように思われてならないのだ。
 政治的自由に止まらず、表現の自由、多様な見解が多様な形で主張される自由が保障され発展させられなければならないと思う。それそれの立場からの深い洞察の結果が付き合わされ、この複雑な歴史の転換期を理性的に解明する努力はいまこそ必要とされているのではないだろうか。グローバル帝国主義の基底にある古典的とも言うべき帝国主義の風潮が急速に露呈し始めている。それだけに、排外主義的で狂信的な政治潮流に不注意にも絡め取られている現在の状況に抗していくためにも、そのことは必要なことだと思う。

無差別爆撃と戦争責任

 3月10日は、第二次大戦を通じて最も凄惨な戦争被害で知られる東京空襲から70周年の日であった。なぜ私が「最も凄惨な」と表現するのか、その理由はこの文章の中で示すことになろう。
 国内メディアは、10日に都内で開催された「都内戦災並びに関東大震災遭難者春季慰霊大法要」について簡単な紹介をしてはいるものの、この空襲の歴史的意義に注意を払うこともなかったように思われる。まして東京都慰霊堂が関東大震災の遭難者を弔うために作られたもので、大空襲の犠牲者は便宜上そこに合葬されているにすぎないということを指摘するものはなかった。つまり、この法要は大空襲の死者だけのものではないことに注意を払うものはなかったのである。東京空襲の被害者は70年を経てもこの程度の扱いにとどめられているということなのだ。
 しかもこの東京都に限られた法要に内閣総理大臣が出席して追悼の言葉を述べるという異例さについては論評されることはなかった。大阪、名古屋、神戸等の大都市の犠牲者だけでなく、私の生まれ育った北海道最東端のまちの犠牲者にいたるまで追悼するのではなく、なぜ東京にだけ出席するのか(この法要で述べられた内閣総理大臣の追悼の辞の意義については後で論じたい)。
 東京には空襲被害者を慰霊する独自の公的な慰霊碑も記念館も資料館もない。なぜか、その理由ははっきりしている。保守的な政治勢力の徹底した反対の結果なのだ(1)。東京にとどまらず、空襲被害を受けた全国70あまりの都市でも状況は基本的に同じである。このままでは体験の記憶も遺品も蒐集されずに散逸してしまう。東京での犠牲者追悼法要に参列するというからには、いったい過去の戦争の国内での被害に対する認識がどのようなものなのか、空襲被害者の一人として是非知りたいと思うのは当然のことであろう(2)。
 東京の中心部を一昼夜のうちに焼き尽くし、驚くなかれ10万人もの命を奪った無差別爆撃、現代であれば人道に対する罪として追求され、その首謀者は国際法廷で断罪される筈の大量殺人の事実がこれほどまでに軽視されてよいものだろうか。しかも、東京空襲はこの国全体に拡大した都市に対する空襲の連鎖の要(かなめ)であり、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下と続く国内での戦争の序曲であり、その頂点であった。
 後で述べるドレスデン空襲がヨーロッパにおける空爆の象徴として記憶されているとすれば、首都東京に対する空襲も、広島、長崎、沖縄と並んで、あの戦争の非人間性、無謀な戦争に乗り出し、敗北が明白になってもなお戦争を止めずに国民に犠牲を強いた日本軍国主義が生み出した惨禍の象徴として記憶されるべきだと、私は思う。
 これまでの「戦後70年」談話を再検討するというのであれば、この空襲とそれに引き続く国内に引き込まれた戦争の意味も明確に述べてほしい。政治的力を持つ人たちのこの沈黙と黙殺はいったい何なのだろうか。無駄死にを強いられた特攻隊員の死だけが美化され、愛国主義的宣伝に徹底的に利用されているというのに、国内に戦争を引き込んで70以上もの都市の住民に強いて30万を超える人びとに死と犠牲を強いたことはいったいどのように考えたらよいのか。被害者の一人として私はそのように問い続ける責任がある。(2015.3。28)

すり込まれている筈の風景

   1945年7月14-15日、アメリカ海軍艦載機が私のまちを襲った。映画館で見る報道ニュースでしか知ることのなかった現実の戦争に初めて遭遇した日であった。来年2015年は、あの戦争が終わって70年という記念の年であるだけでなく、私と私の家族を不幸のどん底につき落としたあの空襲から70年という節目の年でもある。
  兵士として戦場に引き出され幸運にも生き残った人びとは言うまでもなく、物心のついた年齢で体験を強いられた戦争をなお生きて記憶する人は私のようにすでに80才に近く、戦争の体験者は日々消え去っている。そうであるからこそ、体験を後世に残すことは重要な仕事になっていると思う。
  私がこの仕事に取り組みはじめた意図はそれだけにとどまらない。空襲は戦争そのものとは区別された体験だとする、あるいはその体験を隠蔽して戦争とは国外で闘われるものであるかのように宣伝する現代の風潮に、私のささやかな体験を対置することだけでも意味があるように思われはじめたのだ。
  戦争は國の力を総動員する体制として準備され遂行された。国民に耐乏を強い、命を差し出すことを命じる、そして国策への同調を強要する、それが戦争なのだ。支配者たちが目指す勝利のために国民が差し出したのは戦死者だけではなかった。「本土決戦」の号令の下で無謀な闘いが国内に呼び込まれ、犠牲となった人びとの生命と財産も差し出されたことを忘れてはならない。
  私は国内に呼び込まれた戦闘を「空襲」という言葉でくくることには反対である。沖縄戦、広島・長崎への原爆投下が作り出した惨禍は隠しようもない事実であった。だがこれらの惨禍と、ほとんどが隠蔽され埋もれてしまっている大小無数の「空襲」とで、いったいどこが違うというのか。一方は隠しとおせないあまりにむごい現実であり、他方はそれに比べれば「軽微」だったということなのか。しかも「空襲」としてくくられる都市爆撃は「本土」にとどまらす、もっと広範囲に実行された。植民地として支配されていた地域でも大がかりに展開されていたのである。
  記憶されるべき戦争犠牲者は靖国に祀られる「神々」だけではない。愚かな指導者の決断によって多くの無辜の民が殺戮され、苦悩の中で生きることを余儀なくされたことを知るべきであろう。一体誰がその責任を取り、誰がその体験を尊重し、敬意を払ってきたというのか。私が体験した戦争は沖縄戦や東京大空襲、広島、長崎への原爆投下が作り出した惨禍に比べるとさ細なものかもしれないが、その文脈でみれば、わたしの体内になおくすぶり続ける怒りの火種は当然のことなのだ。
  そのために、かすかな記憶をつなぎ合わせ、思考でおぎない、起きたことや失われたものをつたない文章ではあってもとにかく書きつらねる、思い出したくもない記憶をあえて呼びさまし、つなぎ合わせて冊子にすることにも意味があることのように思えてきた。「私の戦争」の記述は、私自身の記憶と、いまなおくすぶり続ける火種を読者にお示しすることから出発する。
  1947年5月3日、新しい憲法が施行された。私ども子どももそれを歓喜の声で迎えた。その前文は難解な文章で綴られてはいたが、理解できた。第九条の精神は明快だった。あの戦争の不条理さ、とりわけ国民に強いた悲惨な体験を共有していたからこそ迎え入れたのだと思う。
  戦争の体験を風化させる試みが進むのに歩調をあわせて、憲法は無視され始めた。その体験を勝手にゆがめ、あるいは無視し、無関心にさせる状況を意図的に作り出して特定の政治的意図を実現しようとする風潮に、この冊子はたとえささやかなものではあっても抵抗の試みでありたいと願っている。
    2014年7月      根室空襲69周年を迎えて
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今私はいくつかの仕事を平行して書き進めているが、世を去るまでには何としてでも完成させたい仕事がある。「すり込まれている筈の風景」と題する私の戦争体験の総括である。これだけは私の記憶を頼る仕事だから、書かなければ私の体験は歴史から抹殺されることになる。
 戦争は国家間の衝突や軍隊同士の殺し合いにとどまらない。巻き込まれた家族と個人の今に至るまで続く苦悩の集積である。戦争は国外で戦われただけではない。私のまちのような北海道東端の小さなまちまで巻き込まれていたのだ。ところが戦争は国内で市民が体験した悲惨など度外視して記述され、戦史としてしてしか歴史に残らない。これでは戦争の真実は伝わらない。最近の好戦的傾向の強まりにも書き遺すことによって抵抗したい、それが私の願いである。
 この2年ほど書き続ける作業が中断している。原因は二つある。一つはこの数年の体調不良のためであり、もう一つはもう少し資料を探査する必要に迫られているからである。例えば、国会図書館蔵書のデジタル化はかなり進んでおり、古い資料を東京に出かけなくても利用できるようになった。調べてみると思いがけない物が発見されることがある。そういうこともあって少し時間をかけてみたいと考えるようになったのである。
 しかし、発表しないと仕事そのものが忘れられるのではと不安にかられる。そういうことから、不細工な形だが、書きかけた部分をとりあえず公表することにした。すでに書いたものは、「すり込まれている筈の風景ー改訂増補版ー」として次にまとめてPDFファイル(KITA1201.pdf)として公表している。
 www.focusglobal.org/kitanihito_blog/2/
 私の今の構想では、「すり込まれている筈の風景」と題する部分は、「1945年7月14,15日の空襲」についてその被害の意義を可能な限り新しい資料を発見して書き上げて終わる筈だ。あとは、一つは私の体験をふまえた「国民学校論」、もう一つは「戦災と文学」と題して「戦争と文学」という従来とは違う発送の括りで沢山の作品を読んでまとめてみるつもりでいる。

すり込まれている筈の風景ー改訂増補版

  私の戦争体験に関わってこの10年間に執筆した文章を発表順に並べて冊子にしてみた.最初の「2003年8月根室行」はウェブサイト上で公表したもので,『葦牙ジャーナル』第52号(2004年6月)に収録された.「奇妙なスポーツ賛歌」は以前に勤務していた名城大学のアメリカンフットボール部イヤーブック『ゴールデンライオン』2004年度版に掲載された.学生たちの激励を目的に執筆したものだが,戦時下の体験に触れているので収録した.「すり込められている筈の風景」はウェブサイトに公表した.イラク戦争,東京空襲60周年,戦後60年の議論,日本と同じ状況で戦後を出発しなければならなかったドイツの議論に触発されながら書きつらねたものである.「果てからの声」は,「京都グローバリゼーション研究所通信」第3号(2008年3月),第4号(2009年9月)に公表したもので,私のウェブサイト上でも読むことが出来る.
 戦争犠牲者は靖国に祀られる「神々」だけではない.愚かな指導者の決断によって多くの無辜の民が殺戮され,苦悩の中で生きることを余儀なくされたことに,一体誰が責任を取り,誰がその体験を尊重し,敬意を払ってきたというのか.私が体験した戦争は沖縄戦や東京大空襲などに比べると些細なことかもしれないが,思い出したくもない記憶をあえて呼び起こし,それを書き連ねることにも意味があることのように思えてきた.無関心,無視という状況を意図的に作り出して特定の政治的意図を実現する現代日本の風潮に,たとえささやかなものではあっても抵抗する試みでありたいと願っている.
 この冊子は,私の執筆構想の半分にも満たない.書きためたものはその都度増補し,最終的には電子書籍化するつもりでいる.感想,意見等をお寄せ頂ければ幸いである.(2012年5月)