2014年8月アーカイブ

すり込まれている筈の風景

   1945年7月14-15日、アメリカ海軍艦載機が私のまちを襲った。映画館で見る報道ニュースでしか知ることのなかった現実の戦争に初めて遭遇した日であった。来年2015年は、あの戦争が終わって70年という記念の年であるだけでなく、私と私の家族を不幸のどん底につき落としたあの空襲から70年という節目の年でもある。
  兵士として戦場に引き出され幸運にも生き残った人びとは言うまでもなく、物心のついた年齢で体験を強いられた戦争をなお生きて記憶する人は私のようにすでに80才に近く、戦争の体験者は日々消え去っている。そうであるからこそ、体験を後世に残すことは重要な仕事になっていると思う。
  私がこの仕事に取り組みはじめた意図はそれだけにとどまらない。空襲は戦争そのものとは区別された体験だとする、あるいはその体験を隠蔽して戦争とは国外で闘われるものであるかのように宣伝する現代の風潮に、私のささやかな体験を対置することだけでも意味があるように思われはじめたのだ。
  戦争は國の力を総動員する体制として準備され遂行された。国民に耐乏を強い、命を差し出すことを命じる、そして国策への同調を強要する、それが戦争なのだ。支配者たちが目指す勝利のために国民が差し出したのは戦死者だけではなかった。「本土決戦」の号令の下で無謀な闘いが国内に呼び込まれ、犠牲となった人びとの生命と財産も差し出されたことを忘れてはならない。
  私は国内に呼び込まれた戦闘を「空襲」という言葉でくくることには反対である。沖縄戦、広島・長崎への原爆投下が作り出した惨禍は隠しようもない事実であった。だがこれらの惨禍と、ほとんどが隠蔽され埋もれてしまっている大小無数の「空襲」とで、いったいどこが違うというのか。一方は隠しとおせないあまりにむごい現実であり、他方はそれに比べれば「軽微」だったということなのか。しかも「空襲」としてくくられる都市爆撃は「本土」にとどまらす、もっと広範囲に実行された。植民地として支配されていた地域でも大がかりに展開されていたのである。
  記憶されるべき戦争犠牲者は靖国に祀られる「神々」だけではない。愚かな指導者の決断によって多くの無辜の民が殺戮され、苦悩の中で生きることを余儀なくされたことを知るべきであろう。一体誰がその責任を取り、誰がその体験を尊重し、敬意を払ってきたというのか。私が体験した戦争は沖縄戦や東京大空襲、広島、長崎への原爆投下が作り出した惨禍に比べるとさ細なものかもしれないが、その文脈でみれば、わたしの体内になおくすぶり続ける怒りの火種は当然のことなのだ。
  そのために、かすかな記憶をつなぎ合わせ、思考でおぎない、起きたことや失われたものをつたない文章ではあってもとにかく書きつらねる、思い出したくもない記憶をあえて呼びさまし、つなぎ合わせて冊子にすることにも意味があることのように思えてきた。「私の戦争」の記述は、私自身の記憶と、いまなおくすぶり続ける火種を読者にお示しすることから出発する。
  1947年5月3日、新しい憲法が施行された。私ども子どももそれを歓喜の声で迎えた。その前文は難解な文章で綴られてはいたが、理解できた。第九条の精神は明快だった。あの戦争の不条理さ、とりわけ国民に強いた悲惨な体験を共有していたからこそ迎え入れたのだと思う。
  戦争の体験を風化させる試みが進むのに歩調をあわせて、憲法は無視され始めた。その体験を勝手にゆがめ、あるいは無視し、無関心にさせる状況を意図的に作り出して特定の政治的意図を実現しようとする風潮に、この冊子はたとえささやかなものではあっても抵抗の試みでありたいと願っている。
    2014年7月      根室空襲69周年を迎えて

このアーカイブについて

このページには、2014年8月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2013年3月です。

次のアーカイブは2015年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。