2015年12月アーカイブ

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  この仕事はこの数年書き連ねている「私の戦争」と題する連作の準備ノートである。主な論旨は「朝鮮人「強制連行」問題を学び直すー北の地方都市での体験から見えてくるものー」として『リーラー「遊」』VOL.9(文理閣、2015年11月)にすでに発表してある。
 歳を重ねるとともに筆は重くなり、運びも遅くなる。発表が遅れたが、このノートのほうが戦争体験に関わって詳細に書き込んでいる。これからの仕事のために思いついたことを「補論」として書き加えたので、それも含めて読んで誤りの指摘やご意見を頂きたい。いずれ電子書籍化するときにもう一度大胆に手を入れるので、その際に反映させたいと考えている。
 「私の戦争」という表題から、自分史を書いているのではと誤解されることも多い。しかも記憶と推論で書いているのだから、学者にあるまじき仕事ぶりと批判されることも十分に覚悟している。私は自身の戦争体験を世に残したいとという意図を隠すつもりはない。だが、この仕事は通常言われる学会的学術研究とは違う私なりの表現方法の模索であることにも是非とも注目してほしいのだ。
 研究とは実証や体験をふまえて可能な限り時代全体の認識に近づこうとする試みであることは、言うまでもないだろう。私もそのように努力しているつもりだ。ところが、いざまわりを見渡してみると、私のような態度は少数で、他人と区別されて細分化された課題を追い求めるような研究ばかりがはびこっているように見えてならない。統計的実証が、あるいは公表されている文献資料が現実の時代や歴史をどの程度に反映しているのかも深く考えることもない、目指す時代認識や歴史認識への展望が示されることもないただの実証分析だけが氾濫している。これではたして社会科学は時代の要請に応えられるのだろうか、このように考えを進めると、私の孤立感は深くなるばかりだ。
 最近の論文や出版物の奔流の中に立つと、孤立感に襲われるだけではない。戦争責任を論じたものを読むと、些細な体験にもとずいて戦争責任を追及する私の態度など、あっさりと無視されるような不安に襲われる。メディアに積極的に登場して乱暴な論理とおおざっぱな規範を声高に提示する人たちには、こんな仕事など蹴散らして進むほどの障碍とも感じられていないだろう。こういう研究・執筆態度が横行し君臨することに、私はは空恐ろしさを感じる。左翼やリベラルと自称する人びとの態度や主張にも違和感を覚えることがある。自ら学んだこともない借り物の言葉を乱暴に投げ合い切り結ぶ姿を見聞すると、乱暴な風潮は政治的立場を問わず蔓延しているように思われてならないのだ。
 政治的自由に止まらず、表現の自由、多様な見解が多様な形で主張される自由が保障され発展させられなければならないと思う。それそれの立場からの深い洞察の結果が付き合わされ、この複雑な歴史の転換期を理性的に解明する努力はいまこそ必要とされているのではないだろうか。グローバル帝国主義の基底にある古典的とも言うべき帝国主義の風潮が急速に露呈し始めている。それだけに、排外主義的で狂信的な政治潮流に不注意にも絡め取られている現在の状況に抗していくためにも、そのことは必要なことだと思う。

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