2016年11月アーカイブ

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  私は港町で生まれ、いつも船を見て育った。いろんな船を見た。大小の汽船、機帆船、漁船、捕鯨船、艀等、軍艦もやってきた。冬になると海が荒れ、アムール川に発する流氷が港と海峡を埋め尽くすと船は港から消え失せ、見ることはなくなった。翌年の遅い春がきて流氷が流れ去ると、船はまたやってくる。船を眺めながらその頃の私は何を考えていたのだろうか。船が結びつける外の世界を夢想していたのかも知れない。
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 こんなことがあった。国民学校3年生の夏ではなかったろうか。港内に停泊する商船を波止場の先に立って眺めていた。ボートでその船に帰る船員が声をかけてくれた。船を見たいなら連れて行ってあげる、と。客船だった。赤絨毯が敷かれたロビー、磨かれた真鍮製の手すりが今でもはっきりと記憶にすり込まれている。子どもの私にはすべてが大きく豪華に見えた。今考えると、あの船は徴用船だったに違いない。北の海のどこかでアメリカ潜水艦に攻撃され沈められ、あの親切な船員も船と運命を共にしたのかも知れない。
 時代の急変動に翻弄され続けたあの港に入港する船を眺めながら生き体験したことにさまざまな思いがよみがえる。とりわけ戦争も終わりの頃の体験を思い起こす。いま区切りをつけてまとめ上げなければならないと決意している。
  私の父岩次郎は腕の良い船大工だった。私は子どもの頃から父の仕事ぶりを眺めながら育った。いまでも船を眺めることが好きだ。特に木造の舟に出会うと、父の働く姿を思い出す。父は私が生まれた頃、中国大陸への侵略に徴兵された。父の年齢からいって本来ならもう一度徴兵されたはずなのにそれを免れたのは、あのまちの零細造船所が合同して設立した造船所で働くことになったからだろう。この造船所は木造船標船建造の軍需工場であった。新造船以外にも、おそらく北方で任務に就き被弾して帰港した徴用漁船の修理も重要な仕事だったに違いない。どんな仕事をしたのか、父から話を聞く機会は父の死によって失われた。それだけに、私は父から聞き出せなかった分も含めて、あの港を寄港地として犠牲となった多くの徴用船とその船員たちが被った苦難と悲惨な運命を調べ、書きしるしておきたいと考えたのだ。
  私のこの仕事は過去への感傷をまとめ上げたものでは決してない。徴用船の悲劇はあの戦争のもっとも犯罪的な側面であった。兵站の十分な体制もないまま無謀な戦争に乗り出し、兵士だけでなく多くの船員や漁民の生命をもてあそんだ。靖国に祀られる英霊はこの無謀さの犠牲になった兵士たちだ。兵士でもないのに駆り出されまきぞえになった人びとの犠牲は顧みられることもなく今も海底に眠っている。その結果が悲惨なものであったとする感傷に突き動かされない限り、追求し真実に接近する気力は生まれない。いくらかは戦争を体験したものが書く仕事の意味はそこにある。そのことを是非とも理解してほしい。
 あの戦争が終わって70年以上も経っているというのに、この問題の検証が十分にされているとは到底言いがたい。それどころか、検証もないのに、戦争への参加を煽り立て、それに積極的に関与することを表明する動きが具体化し始めている。私のこのちっぽけな仕事でもにわかに重要性を増してきたように思われる。あの無謀な戦争に国民を巻き込んでその惨禍を拡大した責任が解明されないままで、ことが進むことに私は反対する。
 集団的自衛権をめぐる議論のなかで、自衛隊が担うのは「後方支援」であって前線での戦闘行為ではないことが強調され、「後方支援」が戦闘行為にあたらないという妙な雰囲気が醸成された。「後方支援」と表現しようと「兵站(へいたん)」「ロジスティックス」と表現しようと、これが現代の戦争の遂行にあたってその成否、勝敗を決する最重要の点であることを曖昧にした議論ではないか。前の戦争では指導者たちはそのことの意義を軽視し、国民を戦争に巻き込んでいった。徴用船問題はその最も重要な側面であった。船乗りたちや漁民たち、徴用船を送り出した港町や沿岸部のまちは前の戦争の犠牲者だった。
 過去に庶民が戦争によって受けた苦悩の現実から教訓を真摯に学ぶことをしなければ、政治家たちの決断は、過去に犯した過ちを繰り返して、いやそれどころかそれをさらに拡大して国民に塗炭の苦しみを味合わせることになるだろう。

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