落葉した木々の美しさー2017年11月北海道の旅(1)−

 11月に北海道を旅するといったら、この時期の北国の気候を体験したことのない友人たちは、紅葉が見頃でしょうねと羨ましがった。とんでもない、北海道はもう冬ですよ、と私は答えた。
 最初の訪問地では木々はすべて落葉し、ナナカマドの赤い実がわずかに残るだけだった。低気圧がもたらした烈風に久しぶりの郷里の冬の厳しさを体感させられ、烈風にもつれる足許に年齢を感じた。木々はすっかり葉が落ちて、葉に隠されていた木の元の姿がむき出しになった。
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 このまちあたりでは木は大きく育つのは難しい。半島を吹き抜ける烈風、春から夏にかけて太平洋側から毎日のようにやってくる塩分をたっぷりと含んだ海霧(この地の人びとはガスと呼ぶ)は木が上に伸び巨木に成長することを許さない。どの木も頭を抑えられ、風になびき、幹や枝をくねらせる。
 この写真は数年前にこのまちの郊外で見つけたミズナラの1枚である。かってはこの木で覆われていた半島も牧場や牧草地の開発で消滅し、湿地帯あたりに残るだけだ。半島を北から南に吹き抜ける烈風ですべての個体が南に傾ぎ、上に伸びることを許されない。
 私はこの姿を自分になぞらえた。私の複雑で屈折した気分や性格は成長を押さえつけられたこれらの木のように、このまちの自然が、そしてそれに条件付けられたこのまちの風土が生み出したものだと。内地の大学に進み、緑なす巨木を見て、私は憧れた。その感情はすくすくと上に伸びることができた者たちへの憧憬であり、本屋もない劇場もない、いわば「文化果つるところ」で育った私のコンプレックスの表現でもあったのではないか。
 この数年私は別の見方にとらわれはじめている。上に伸びられず屈折して成長したことは、その木の個性であり美しさではないかのかと。ミズナラも複雑にまがり、同じようなまがりはない。それぞれが美しいと思う。
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 カスパール・D・フリードリヒという19世紀に活躍したドイツ人画家がいる。この作家の作品に示されるいくつかの表彰に勝手な理屈を付けてあこがれた。彼の描くそびえ立つ巨木の姿に私は何物にもとらわれず生きる力を感じたし、彼が描く帆船には、広い世界への憧憬を感じたものだ。今彼の画集を仔細に見てみると、多くの曲がりくねった木の描写がある。どれも美しい。彼がドイツ北部の出身であることとの関連を考えていた。
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 このことを私は旅の間ずっと考えていた。「内地」にも折れ曲がった木がないことはない。しかし、厳しい気候に押さえつけられた木々の姿は、北の国に特有のものではないか。私自身のことはともかく、いまや衰滅の過程にはいった私の生まれたまちは、いったいこの厳しい自然環境のなかでどのような個性を創造しようとしてきたのだろうか。その創造への努力があったとすれば、今の人たちはこれを大事に守り発展させていく気概はあるのだろうか。
 ますます無機質に改造される札幌を観察しながら、これが先祖たちの苦労がちりばめられた長い殖民の歴史の結末なのかと暗澹とした気分に襲われた。この地域の文化について発言するつもりは毛頭ない。ただ代々の先祖たちの苦労をいくらかは引き継ぐ一人として発言する権利はあると思い始めている。

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