北の小さなまちに戦争の跡をたずねてー2017年11月北海道の旅(2)ー

    前回に書いたような感傷に浸るのがこの旅の目的ではなかった。書き続けている私の戦争史の調査が主な仕事であった。
 私は今、私が生まれ育った北の小さなまちで体験したことを記憶をたどりながら書きつづり、戦争とは何か、空襲とは何か、体験を今の時代にどのように継承していくかについて考え続けている。
 少年の頃の悲酸な戦争体験を決して忘れることはない。その体験に裏付けられて、私の反戦への意志と平和を希求する態度は死ぬまで変わることはないだろう。しかし、そのように断言するだけでは、私の基本的態度を完全に表明したことにはならないといつも決意を反芻している。あの戦後の貧窮と悲惨を私ども庶民にもたらしながら、反省もなく今日にいたるまで権力の中枢を支配している政治潮流に対する憎悪を表現しないで人生を終えるなんて、私には到底考えられない。年齢を重ねるにしたがって、私のこの思いは募るばかりだ。
 1945年7月15日に天皇が行ったいわゆる「玉音放送」によって無条件降伏を受け入れ、「戦争」が終わったと信じ込まされている。とんでもないことだ。国際法上は、戦争は降伏文書への調印によって終わる。この国についていえば、1945年9月2日にミズリー艦上で政府代表が降伏文書に署名したときに戦争は終わったのだ。
 戦闘行為によって家族を失い、全財産を失い、零落を強いられた人びととって戦争はまだ終わってはいない。それは国の内外を問わない。中国人にも台湾人にも、朝鮮人にとっても終わってはいない。あの戦争の被害者は国外の戦地で徴兵されて死んだ日本人兵士に止まらないのだ。

 戦争と空襲を区別することは意味がないことだと思う。一般人は主体的に戦争に係わっていないのに巻き添えにされた。兵士たちには補償があったのに、空襲で被害があったものには何の補償もなかった。慰めの言葉さえもなかった。そのことを強調したいのなら、それに限っては意味のある区別かも知れない。東京大空襲の直後に軍服姿の天皇が焼跡を視察する有名な写真がある。被災者たちは焼跡にぼう然としてたたずみ、天皇に拝礼することもしていない。天皇は彼らに言葉をかけることもなく足早にその場を通り過ぎただけだった。あの時彼は何を思っていたのだろうか。自分の決断が民に塗炭の苦しみを味あわせたという悔悟の念が少しでも湧いていたら、あの後4ヶ月も戦闘行為が続くことはなかったろう。
 第二次大戦ではじめて都市爆撃が戦争の最重要の部分になった。ナチのゲルニカ爆撃、イギリスのドレスデン爆撃は軍事施設攻撃を意図したものではなかった。「無差別」爆撃という表現は第2次大戦に関する限り正しいとは言えない。はじめから都市の破壊と住民の殺戮を無差別に実行することを意図した戦闘行為だった。
 ルメイが東京大空襲を戦争行為として正当化するために編み出した論拠など、大量殺戮の後味の悪さを和らげるための清涼剤みたいなものだったと言うべきであろう。通常兵器の殺傷力をはるかに超える原子爆弾の開発に携わった科学者たち、広島、長崎への投下を命令したハリー・トルーマン大統領の決断を考えてみたらよい。彼らはどのようにその決断を正当化したのだろうか。彼らの行為はゲルニカ爆撃にはじまる新たな殺戮戦争の最悪の形を作り出したのだ。彼らの人間としての後悔の言葉を聞きたいものだ。残念ながらほとんど聞こえてこない。
 この流れに積極的に身を委ねた点では日本の権力者たちも同罪であった。重慶爆撃はゲルニカをはるかに超える殺戮行為であった。
 そのような立場からすれば、世に知られた広島・長崎への原爆投下、東京大空襲、沖縄戦も戦争にとどまらず、この国の多くの無名の都市に加えられた空襲も好き放題に銃撃したとしか表現しようのない小さな村落や漁船に対する銃撃もまさしく戦争だった。殺戮や損害の規模に関わりなく、それらも決して忘れ去られてはならない戦争の重要な部分なのだ。

 この国の空襲を考えるとき、すでに本土の領空権も領海權もなくして敗北は明らかになっていたのに、アメリカ軍を国内に呼び込むという愚かな「本土決戦」を号令した権力中枢と軍部は糾弾されなければならない。敗北を認め降伏すれば戦争末期の悲惨な現実は回避できたのだ。
 しかも、「本土決戦」と言い「国体護持」と言い、彼らが守ろうとした「本土」と「国体」には、沖縄をはじめとする南西諸島も北海道、千島列島を中心とする北東方面も入ってはいなかった。どちらの地域も「捨て石」以外の何物でもなかった。

 戦争被害が空襲の規模の大小や中央からの距離によって語られることが多くなったような気がする。さらに進んで、戦争被害が語られること自体が確実に少なくなっている。北の小さなまちを巻き込んだ戦争の凄惨な現実などなかったかのようにつぎつぎと忘れ去られつつあることに、私は戦慄する。忘れ去られることを待っている勢力がある、それを忘れさせようとする勢力が力を得ている。その勢力が力を得たときに待っていることは明らかだ。この流れに微力ではあっても抵抗すること、これが私が記憶をたどって書き続けることの目的だ。

 書き始めてから時々思わぬ所から反応が寄せられる。描き手にとってはうれしいことだ。昨年も未知の若い人からアメリカ国立公文書館で収集した写真を紹介するメールが届いた。アメリカ軍艦載機が1945年7月15日早朝に撮影したものだ。国会図書館にも何枚かコピーが収蔵されているが、それ以外にもまだあると予想はしていた。今の私の年齢ではとてもワシントンまで調査に出かけるのは無理と考えていたので、この連絡は大変うれしかった。7月14日の写真がまだあるはずだし、徴用船への攻撃の状況を記録した写真もあれば欲しい。提供してくれる人を探している。
 これらの写真を見てから、私をあらためて現地に立つことを考えはじめた。この写真を観察して、空襲という戦闘行為の下で展開されていたこのまちでの戦争の全体像を確かめてきたくなった。
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 一番衝撃を受けたのは、私の生家がまさに燃え上がる直前の姿が写し出されていることだった。撮影された時点では、おそらく父を除いた私たち家族は地域の防空壕を脱出していた。父は自分の母の救出を断念してすでに家から脱出していただろうか。祖母は熱風と煙の渦の中ですでに絶命していたに違いない。この写真を見ながら思わず涙がこぼれた。燃え上がる炎の色も姿形もこの世のものとは思えぬものだった。今も鮮明に脳裏に刻まれている。三洋館の裏手から出火したから防空壕にいては焼け死ぬと皆が口を揃えて騒ぎだしていた。野積みされた軍需物資が狙われたのだと思う。石油を入れたドラム缶が爆発し空高く舞い上がった。その様子もこの写真が写し出されている。
 攻撃を避けるために港外に散開する徴用された漁船のなんと多いことか。おそらく200隻に近い船があの狭い湾内にひしめいていたのだ。お
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そらく相当大きな兵站の計画が準備されていたのだろう。前日の14日にはもっと多かったはずだ。あの空襲で何隻が沈められ何人が死んだのか記録は残っていない。7月14日、私は地域防空壕の上からゆっくりと沈んでゆく徴用船を眺めていた。木造の漁船を沈めることなどたやすいことであった。船の喫水線あたりに機銃かロケット砲を命中させれば浸水し始め沈没する。後は海上に逃れる船員たちを救助に向かう手漕ぎの伝馬船を銃撃していたらよかった。アメリカ人の
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兵士には簡単で面白いゲームのようなものであったに違いない。
 3カ所から火の手が上がっている。私の家があった柳田埋立地、それから私の通っていた花咲国民学校、それに松が枝町、鳴海町の住宅地の3カ所である。最後の目標には軍事施設はまったくなかった。おそらく花咲国民学校を狙った投下が大きくそれたのだろう。ここでは防空壕が直撃弾を受けて多くの人が犠牲になった。私の母校はおそらく軍事施設と誤認されて集中攻
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撃されたものと思われる。私の母校は港に近いこともあって、移動する軍隊の駐屯地になり、校舎は兵士と武器と軍需物資に占拠されていた。文字通り兵営と化していた。運動場や校舎の前の道路が兵器と軍需物資で占拠されることが多かった。まさに前線基地の様相を呈していた。しかし空襲の時には駐留していなかったし、いても無謀にも反撃するということなかったはずだった。反撃はするなと命令されていたかからだ。
 あの空襲から72年が経っても、写真を仔細に観察すると、まだたくさんの「戦跡」が残っていることが見て取れ、いろいろなことが思い出される。私の生まれたまちのあちこちに立って戦争の記憶を蘇らせ、それを資料と証言で裏付けて書き留める、それが今の私の仕事のやり方である。この写真を手にあらためて現場に立ってみたくなった。

【附記】
 これらの写真はブログ「北仁人のたわ言」に昨年書いた「アメリカ艦載機の波状攻撃に逃げ惑ったあの日ーJアラートを嗤(わら)ってばかりいられないー」公表している。www.focusglobal.org/kitanihito_blog/j.html

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