隠された臨港線の軍事利用ー2017年11月北海道の旅(3)ー

【根室臨港線の歴史】
 JR根室駅から貨物用の短い引き込み線があったことなど、かなりの水準の鉄道オタクならともかく、知る人はいないだろう。ましてそれが前の戦争の末期には兵站の最重要路線であり、千島列島の基地への補給の生命線になったことなどほとんど知られていない。
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 「根室臨港線」、これが正式の呼び名なのかどうかは知らない。1933年(昭和9年)6月12日に開通した根室本線根室駅から海岸の港湾施設近くの根室港駅までのわずか1.2キロメートルの貨物線であった。この貨物線は私の母校である花咲国民学校のグラウンドの東側を通っていたから、蒸気機関車に引かれて喘ぐように走る貨車の列を見るのは毎日のことだった。ただ私は私の学校の教室や運動場を占拠していた戦車や野砲で武装した軍隊がどのような方法でやってきたかについては、小さな子どもには考えが及ばなかった。
 臨港線は1965年(昭和40年)まで使われていたから、私の少年時代の記憶に鮮明に残っている。ただし戦後に線路や機関車にいたずらをした記憶などがほとんどで、戦前の記憶は残念ながらごくわずかしか残っていない。小さな子どもの探検できる距離は限られていたからだ。写真もほとんど残っていない、この忘れ去られそうな、いやとっくに忘れ去られている短い貨物線を取り上げる理由は何か。私は最近はやりの鉄道オタクではない。私のまちで闘われた戦争の最重要の舞台の一つであったからだ。
 新聞の報じるところによると、JR北海道は道内の赤字路線の大幅な廃止計画を公表している。そのなかには釧路ー根室間の通称花咲線も含まれている。この路線の廃止によって、北海道拓殖の史跡が最終的に失われるだけではない。第二次大戦の最終局面での兵站の現実と朝鮮人強制連行を証明する証拠も失われることになる。だからこそ、その痕跡を調べて確認して書き残しておきたいと切に願うようになったのだ。
 国有鉄道が北海道最東端のまちまで開通し、それが根室本線と正式に呼ばれるようになったのは、1921年(大正16年)8月であった。釧路までは1907年(明治40年)9月に開通しているので、釧路ー根室間の開通まで実に14年も要したことになる(注1)。
 北海道という広大な島、しかもアイヌと幕末に移住して海岸にへばりつくように暮らす少数の和人の殖民を日本国に包摂するためには、鉄道網の整備は急務であった。目的は二つあった。
 一つには、ロシアの南下に軍事的に対抗できるように第7師団が配備されている旭川から兵員の輸送を迅速に行える鉄道の整備が求められた。根室本線が難所である日高山脈越えのルートを選び、旭川に近い滝川に出る路線になったのはそのためだろう。現在では札幌から東に行くには、滝川をまわらずに石勝線経由で帯広、釧路に出るのが幹線になっている。根室本線は完全にローカル線になってしまった。
 もう一つは、北海道の石炭をはじめとする鉱物資源の収奪を急ぐことが求められたためだった。釧路地域が産出する石炭や硫黄が鉄道建設の緊急度を高めたのである。硫黄採掘の権利を持っていたのは安田財閥の創設者、安田善次郎であった(注2)。
 釧路までの開通に比較すると、根室までの開通はさほどの緊急性はなかったのではないか。ということは、千島列島の包摂は中央の権力にとっては優先順位は低かったということだろう。根室は依然として海上輸送で十分だったのだ。
 釧路に14年も遅れれてようやく開通したものの、貨物輸送という点ではこれほど非効率的な路線はなかった。釧路の場合、根室本線の開通に対応して釧路駅が新設され、これに旧釧路駅が浜釧路駅と改称され、その区間が臨港線になっていた。それに対し、根室駅はこのまちの物流の拠点である海岸の倉庫や港湾設備とは結びついておらす、最初から欠陥だらけであった。送られてきた貨物は小高いところに建設された駅から馬車や馬橇に積みかえられ海岸まで運ばれた。1933年に臨港線が開通したが、倉庫のある地域からは離れていた。倉庫地帯まで馬車で運ばざるをえなかった。
 私がこのまちに育った印象を書きしるしておこう。このまちは海岸の倉庫地帯に育った私にとっては、馬車の喧噪と馬糞の臭いに満ちていた。重い荷駄で雪解けの泥濘に車をとられ脱出しようと藻掻く馬たちのあえぎと流れる汗、博労たちの馬を叱咤するだみ声、根雪がようやく消えて到来する遅い春の記憶は汗で光る馬の背、馬たちの体臭、泥濘の道から立ち上る蒸気であった。「近代化」に取り残されたような風景であった。

【臨港線の軍事的役割が急変した】
 ところが、戦争の最終局面でこの風景も一変し、前線基地としての私のまちの戦略的重要性が突然高まった。港も狭く浅く、軍隊を駐留させる十分な場所もなかった。それなのに重要性が高まった理由は簡単だ。大型船舶に頼る兵員輸送はアメリカ軍潜水艦の攻撃でほとんど不可能になっていた。その結果、小型の漁船に輸送を頼らざるを得なくなったのだ。あんなちっぽけなまちの港湾に頼らざるをえなくなったのだ。鉄道を使って物資と人員をこの小さな港に運び、そこで徴用した漁船に積み替えることが、北方での軍事作戦の生命線になってしまったのである。そこまで追い込まれてしまったのだ。
 北東方面での軍事的力関係は日本にとって急速に悪化していた。ソ連の参戦の可能性も高まっていた。千島列島と北海道東部への軍隊の移動や戦略物資の輸送だけでなく、要塞の強化も緊急の課題になっていた。飛行場やトーチカ等の建設には多くの朝鮮人労働者を強制連行し使役した。あげくの果てには中国人を強制連行して使役した。これらの労働者たちは根室本線を貨車で運ばれてきた。労働者を載せた貨車は根室駅でポイントを切り替えて臨港線に入り、港駅から徴用船に乗り換えさせられ、千島列島の基地建設に送り込まれたのだ。アメリカ軍潜水艦の攻撃で多くの労働者が船とともに海中深く沈められた。それがどれほどの数に上ったかはわからない。

【臨港線の拡張が進んだ】
 さらに、この臨港線には公表されていない軍事的利用にだけ供された支線が建設された。牧ノ内に根室第二飛行場を建設するために、海軍はこの線から飛行場までの支線を敷設した。建設用資材だけでなく多くの朝鮮人労働者が貨車で送り込まれた。
 さらに、私のまちに常駐していた陸軍の船舶部隊、通称暁部隊は手狭な港湾設備を拡張するために築港建設に着手していた。そのための機材と朝鮮人労働者を輸送するために臨港線が数百メートル延長された。
 戦時下では、正確で詳細な地図は防諜上の理由から最高機密として公表されることはなかった。それだけにアメリカ軍艦載機が撮影した写真から学ぶことは多い。特にあの頃のまちの状況を手に取るように示してくれる。妙な話だが、敵国が撮影した写真のほうが当時の生活を知る上で貴重なものになる。
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 アメリカ軍が戦果を確認するために撮影した写真に写る臨港線を書き込んでみよう。1枚目の写真は私のまちを南西の方角から撮影したもので、根室本線(橙色の線で表示)から分岐して港駅まで延びる臨港線(桃色の線で表示)がはっきりと写し取られている。
 それと同時に、この二つの路線の間にもう一本線路が写っている。これは明らかに牧ノ内に建設した根室海軍第二飛行場に建設資材と朝鮮人労働者を運ぶために施設された支線である(緑色で表示)。本来の臨港線よりこの支線の方が距離が長かったのである。本来の臨港線は港駅から数百メートル延長されていた(青色で表示)。暁部隊は兵站基地としての機能を強化す
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るために、朝鮮人労働者を使役して新しく港湾を作り始めていた。そのための延長であった。
 2枚目、3枚目の写真は港と築港に降下して撮影したものだが、そこでみる限り築港はほぼ完成していて軍需物資が野積みされており、そこから徴用船に積み込まれる状況にあったことが見て取れる。
 臨港線の牧ノ内線や築港線の延長については、地元の出版物を見てもまったく指摘がないか、指摘されていても正確さを欠いているものが多い。当時を生きた人には自明のことであったにしても、後世の人のために記録を残さなければならないのではないだろうか。
 

(注1)石川啄木の歌集『一握の砂』に次の歌が収められている。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」 これは釧路に着いたときの心象風景を歌った一句である。啄木は1908年(明治41年)1月にそれまで働いていた小樽の新聞社を辞し、釧路に職を得たのだが、ここでもそりが合わずわずか3ヶ月の滞在で釧路を去っている。開通した翌年のことだった。
 啄木は「汽車」や「停車場」「駅」に歌心をそそられていたから、この歌にいう「さいはて」は鉄路の終点のことであった。ただ啄木が降り立った駅の位置は現在の場所とは違い、さびしい雰囲気のところだった。地理的にみれば、さいはての町は釧路よりももっと東にあり、私のまちのほうが雰囲気としてはふさわしいといつも思っていたものだった。鉄道がその頃までに私のまちまで完成していれば、啄木も私のまちに滞在し、あの魚臭いまちに今も彩りを添えたのではと想像したりもした。
 (注2)労働力確保が鉄道建設にとって最大の課題であった。そのために多くの囚人たちが鉱山開発と鉄道建設に投入された。いわゆる「タコ部屋」と称される北海道に特有の奴隷的雇用はここに起因し、北海道に強制連行されて基地建設に使役された朝鮮人たちに及んだ。鉄道建設の正史には、阿寒の硫黄山建設に囚人を利用したことに触れているだけで、総じて労働力問題や労使関係については記述がない。日本国有鉄道北海道総局『北海道鉄道百年史』(上)1976年3月、85-86ページ。

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