学者の社会的責任、大学の社会的責任ー3・11追悼の日を迎えてー

 あの大災厄からもう1年が経過した。しかし私自身の暗澹たる心情はいまだに続いている。政治の混迷とていたらく、東京電力を初めとする企業経営者にみる社会的責任の欠落、そして「支援」とか「絆」と言いながらその実売名をはかるかのような行為に終始する輩が横行している実情を見ると、私の気分はますますふさいでくる。一瞬にして家族と財産を失い、放射能汚染におののく人々の心情を思い、それに寄り添う共感の態度こそが求められているというのに、「復興」と「支援」の声にはある種の傲慢さがひそんでいるように感じられてならないのだ。
 大災厄は学者とその所属する大学のあり方を考えさせる機会になったように思われる。メディアの登場して原発大災害を解説する原子炉工学専門の教授たちの態度に憤激したのは、私だけではあるまい。私の世代に用いた言葉を使えば「御用学者」ばかりであった。彼らは大学で学生たちになお「安全性」を論じ続けているのだろうか。国際学会では彼らはどのように振る舞っているのだろうか。彼らはおそらく時流に何のためらいものく身を任せ、それが自分たちの使命だと考え、主張し、行動してきた。原子力発電に反対するものたちの意見を無視し、あるときは嘲笑してきた。研究費を出してくれる企業への忠誠こそが彼らの行動規範であった。だからこそ「安全性神話」を何のためらいもなく受け入れ、宣伝したのだと思う。大災厄を前にして彼らはこれまでをどのように自省しているのだろうか。国民の安全、人類の安全を守る態度に転換したのだろうか。それとも反原発のうねりがいずれ沈静化することを期待して息を潜めているのだろうか。
 地震学者たちの態度も同じようなものだ。地震予知という技術の開発に向けて膨大な国家予算の支出があった筈なのに、国民の安全のためという姿勢を貫いて研究していたとは思われないのだ。「想定外」「予想外」という表現は、彼らの免罪符には決してならない。
 このような無責任な流れや縄張り意識で予算を独占してきた仕組みを抱えている大学や学会は今後どのような姿勢を正し、変えていこうとしているのだろうか。
 科学者の主流に見られる無責任な態度を観察していて、私はマンハッタン計画に始まる核爆弾開発に対する学者たちの関わり方を思い出している。ナチス・ドイツの原爆開発が近いという虚偽情報を操作して、アメリカはユダヤ系の物理学者たちを巧みにこの計画に誘い込んだ。ドイツの敗北によってこの悪魔の軍事技術の開発は無用となったはずだから、即刻封印されるべきであったのに継続され、こともあろうに核開発には無縁の日本に最初の核爆弾が投下されたのである。爆弾に始まって今度は動力として軍事的に利用され初め、原子力潜水艦、原子力航空母艦の技術に展開されていく。原子力発電にみる「平和利用」とは、軍事技術の転用でしかなかったのである。
 この過程で多くの研究者たちと大学は産軍複合体に巻き込まれていったが、指導的研究者の何人かは核兵器開発に道を開き、自らもそれに参画したことを悔い、今後の研究のために倫理的規範を示したのである。開発を推進したA・アインシュタイン、H・オッペンハイマー等の後悔、ラッセル・アインシュタイン声明、ドイツの原爆開発に関わった科学者たちによるゲッチンゲン宣言等、科学者の宣言が続いた。そのことによって学問と大学の持つべき批判的精神は救われ、維持されたのである。彼らの活動の高い倫理性によって大学を構成する多くの人々の自治と自由を求めて闘いは励まされたのである。少なくとも私はその倫理性の継承をめざして努力してきたつもりである。
 このような歴史の教訓に照らして、いま学者たちに求められていることは何か。悪魔的な技術に対する批判的態度を明確に表明することである。原発をめぐる世界の状況を見ているといまこそ歴史的転機であることは明らかだ。いまこそ高い倫理性を示すべき時である。先達の勇気ある行動に倣うべき時である。そのような気骨ある、社会的責任を自覚した学者たちが輩出することがことが期待される。
 大学や学会はそのような学者たちを世に充満するデマや罵詈雑言から守ることが求められるだろう。そのためには、大学は組織としてその社会的責任を明確にすべきと思う。現代は営利企業でさえその社会的責任を問われる時代である。大学だけが」例外であり得るはずがない。大学が研究費集めに狂奔し、産学協同を自明のこととして経営されることを再検討しなければならない。
 大学には人類から付託された責務がある。地域住民や国民に限定されずに地球的視野で考えることが求められている。原子力発電やエネルギー問題についても、自然災害や防災についてもその視野で対応することが求められる。そのことを自覚せず、卑近な企業的利益に奉仕する組織に終始するならば、大学は普通の研究機関、普通の教育機関でしかなくなる。このままならば、この国の大学は滅びの瀬戸際に立ち至るといってよいかもしれない。(2012.3.12)

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