7月15日を迎えて

 7月15日、この日には1945年7月15日に私に起きたことを必ず思い起こす。あの日は私の体験した戦争の頂点であり、あの日に私の戦争は実質上終わっていた。その前日から北海道の東端の小さなまちをアメリカ海軍艦載機が空襲し、まちの港湾設備は破壊され、中心部は焼土と化した。私の家は午前8時ころ全焼し、家財産から預金通帳、愛国国債に至るまで消失た。80歳を超える祖母の救出の努力もかなわず、家の焼け跡で家族だけの野辺の送りをした。国民学校4年生であった私には瞬時に近い速さで起きたこの戦争体験を理解できなかった。現人神である天皇が統べる神国の勝利を教育現場だけでなく、あらゆる宣伝手段を通じてたたきこまれていた子どもたちにとっては信じがたい状況であった。その1月後の8月15日、昭和天皇のいわゆる「玉音放送」があったが、私にとってどうでもよい出来事であった。敗戦を自覚させられたのはまさに7月15日、この日だったと思う。
 あの日を頂点にする戦争という狂気の時代の体験はその後の私の人生観や生活観に大きな影響を与えている。80歳に近い今になっても、その体験の意味を考え反芻し続けている。10才にも満たない子どもに教育勅語はおろか軍人勅諭の暗唱まで強制したあの頃の国民学校教育の狂気はいったい何だったのか。子どもたちに兵営的規律と、まさに児戯にも等しい軍事教練を強い、天皇の権威を背景に子どもに平然と暴力をふるった教師たちは一体何を考えていたのだろうか。君が代も日の丸もそのような暴力による支配の道具だったのではないか。
 この日の体験をなんとしても書き残しておきたいと思う。私の執念にも似たこの思いを、ひとは異常なまでの執着心というかもしれない。しかし、戦争の体験者が急減している状況をみると、このままでは前の戦争の実態は抹殺されてしまうという焦燥感にとらわれるのは私だけではないだろう。1945年(昭和20年)当時成人であった人の総人口に占める比率を最新の国勢調査によってによっておおまかに算出してみると、1.7パーセントである。「銃後の守り」の女性たちが半数を占めると仮定すれば、兵士として国外で闘ったものは0.8パーセントよりもはるかに低くなる。戦争の記憶をまだ持ち続けていると思われる年齢を私と同じ77才以上の人と仮定すれば、その比率は8.6パーセントになる。
 もう一つ気になることがある。前の戦争は決して国の外でだけ戦われたのではない。沖縄戦や広島・長崎への原爆投下はその犠牲者の数とその戦い方の特異さによって、その犠牲者は慰霊され、多くの人によって記述されている。ところが東京大空襲をはじめとする各地の空襲の犠牲者に対する対応はほとんどなされていないように思われる。私の家族も含めて空襲の犠牲者に対する「本土決戦」を叫んで戦争を長引かせた当時の政府とその継承政権の責任は自覚されていない。研究者たちが前の戦争の戦史を記述する場合にも、同じ過ちを犯しているのではないか。
 毎年この日を迎えるたびに、気持ちを新たにして「私の戦争」シリーズ執筆を促進しようと決意するのだ。(2013.7.18)
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【補】
 最近入手した私の国民学校入学式の際の学級写真を紹介しておこう。私の家族のこの種の写真は空襲ですべて消失した。罹災しなかった当時の級友から借用したものだ。
 1942年(昭和17年)4月1日、根室町立花咲国民学校屋内運動場で撮影されたものである。国民学校教育についてはそのうち書くつもりだが、こんな大きな日の丸を背景に撮影されていた記憶はまったく失せていた。屋外運動場の国旗掲揚塔にはこの旗は大きすぎる。このような節目の時のシンボルとして準備されていたのだろうか。この巨大さは私が受けた狂気の愛国主義教育の象徴そのものである。 

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