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  もう一度あの帆船の写真に戻ろう。
 この帆船は柳田家の持ち船だたことは確実だ。船体もマストのバランスも、帆船についてまったく知識のない私の眼にも見事なものに映るのだから、柳田がこの船を写したことには特別の意味があったように思われるのだ。
 柳田藤吉は松前藩時代から幕府直轄支配の時代に継承された場所請負制度の廃止を機に根室に漁業権を獲得し、仲買商人から漁業経営者に転じた。1871年(明治3年)に帆船8艘に現地ですぐに建てられるように切組みした家屋や倉庫、漁船、漁具そのた一切の必需品を積み込み、永住者と雇い入れた漁民を引き連れてこの地に乗り込んだ(1)。
 この写真の船を含め、帆船はどこで調達されたのだろうか。函館であることは間違いない。幕末、明治初期の函館は洋式帆船建造の先進地域であった(もっともそれ以前にも幕末の豪商高田屋の造船所があり、和船建造の中心地でもあった。このことの意味については後でまた触れる)。
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 1855年(安政2年)、函館の船大工続豊治、辻松之丞(5代目)によって日本で初めてスクーナー型帆船が建造された。この二人に島野市郎治、イギリス人トムソンがこの頃造船所を構えていたといわれる(2)。維新政府が1870年(明治3年)に近代化政策の柱として「商船規則」を制定し、日本型帆船から西洋型帆船への転換を基本政策に掲げ、後者の奨励を宣言したことにより、函館の造船所の地位はさらに高まった(3)。少し時代は下るが、1878年(明治10年)頃の函館の造船所の活況ぶりを示す写真を示しておこう(4)
 西洋型帆船への転換についてもう少し論じておきたい。石井謙治によると、維新政府は1886年(明治18年)7月に500石積み以上の日本型帆船の建造を禁止する法律を制定する。北前船船主が抵抗はしたことはいうまでもないし、当時の船大工の技術水準では西洋式帆船に全面的に転換することは不可能であった。そのため西洋式帆船のほとんどは、日本型を巧みに換装した、いわゆる「合いの子船」であったという。その方がはるかに安価に建造できたことも影響しているであろう(5)。
 石井の仕事をふまえて前回の根室港の写真を見ると、そこに映る帆船のほとんどは「合いの子船」のようだ。それに対し、上架された柳田の帆船は明らかに本格的な西洋式である。
 その船を写したことに特別の意味があるように思われる。帆船が当時どれほど高価なものであったか知らないが、それを8艘も仕立て、漁船、漁具、家屋倉庫まで賑々しく運び込み、多くの雇い人や移住者までも輸送するとは、そのための資金は相当な額にのぼったことは十分い想像できる。商人として成功していたとしても、進出の事業を一挙に実現するほど手許資金が潤沢であったあったとは考えられないのだ。『根室市史』にその点について注目すべき指摘をしている。
 『根室市史』は「松本十郎翁談話」に依拠して、柳田の進出は当時函館で活躍していたイギリス人商人ブラキストン(6)を銀主(ぎんす)としていたとする。つまり資金を出したのはブラキストンだったということだ(7)。松本十郎は開拓使の幹部だった人物で、彼のこの指摘には信憑性がある。
 ブラキストンはイギリスのスパイ、あるいは情報提供者だったのではないか。イギリスにとってロシアの極東における動向に関する情報は重要だったはずだったし、北海道開拓に積極的に関わり始めたアメリカの動きも気になったはずだ。柳田が根室に進出し、そこを拠点に千島列島に進出してくれれば、情報がほしいブラキストンにとっては言うことなしの融資話であったはずだ。柳田の根室進出のために必要な巨額の資金を提供したことにはこのような背景があったのではないか(この視点はそのうち稿を改めて論じるつもりでいる)。
 ブラキストンがスパイであったかどうかはおくとして、彼がパトロンであるなら、この船の建造者はトムソン造船所ということになるだろうか。
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 1880年(明治12年)に根室を写した写真がある(6)。柳田が根室に進出して7年たった頃の町並みである。観察のために、一部分を拡大してみた。柳田は1885年(明治7年)7月に移住しているから、移住後5年たった風景でもある。写真のつなぎ目あたりに写る柳田の店舗と居宅はまだ仮屋で、その後に建てられた大邸宅とはえ
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らい違いである。本町埋立地の工事もまだ始まっていないが、埋立が終わった頃の写真に写る小屋はすでにそこに建っている。おそらく函館で切組みして持ち込んだ建物であろう。当時の海岸線も興味を引く。この海岸は私の時代には「漁師町」と通称され、沿岸で漁をする零細漁民の地区であったと記憶している。それ以上に漁船の数が多いのに驚かされる。漁労小屋だけでなく造船所とおぼしき建物もある。その背後にある建物は雇い人や移住者たちの住居であろうか。この写真には写っているのは柳田の領域で、柳田の邸宅の反対側のネムロベツには柳田と覇を競った藤野喜兵衛の漁場があった。そこにもほぼこれと同じ風景があったはずだ。
 藤野の漁場も含めてこれほどの数の漁船をいったい誰が建造したのだろうか。すべてを函館で建造したとは考えられない。和船を建造するのに必要な職人たち、木挽き、鍛冶屋もすでにここに定住していたに違いない。彼らはどこの出身だったのだろうか。主原料である木材はどこから仕入れたのだろうか。彼らの道具はどこで作られ、調達されたのだろうか。このようなことを調べ推理することは楽しいことだ。
  しかし、この推理が私のかすかな記憶とどのように結びつくのか、私の家族の運命とどのように関わってくるのかについて夢想するのが本来の目的なのだから、前置きは楽しくてもほどほどにしなければならない。前置きの分析はまだ続くが、少しずつ原点に近づいていくことにしよう。


 (1)柳田辰男編『天真の流露ー柳田藤吉の記録抄ー』、東京、1992年8月1日、9ページ、『根室市史』、上巻、1968年7月30日、354ページ。
 (2)『函館市史』第2巻、1039-1044ページ
 (3)石井謙治『和船』、?、法政大学出版局、1995年7月、114ページ。
 (4)北海道大学付属図書館(編)『明治大正期の北海道 1868-1926』「写真編」、北海道大学図書刊行会、1992年7月、135ページ。
(注5)石井謙治、前掲、115-118ページ。『函館市史』によると、開拓使は1876年(明治8年)5月に北海道に船籍を持つ者については、500石以上の和船の新建造を禁止する布達第4号を出している。維新政府よりも2年早い禁止令であった。『函館市史』、前掲、1041-1042ページ。
 (6)ブラキストン、正確にはトーマス・W・ブレーキストン(1832-1891)はイギリス人で軍人出身の探検家、博物学者。津軽海峡に生態系の境界線(ブラキストン線)があることを指摘したことで著名である。シベリアで林業を経営しようとしたがロシア側の同意を得られず、その後は函館を拠点に貿易活動に従事した。そのころに柳田と親交を深め、柳田を資金面で支援していたようだ。
 (7)ブラキストンとの関係は、奇妙なことに柳田一族が出版した上述の書物ではまったく触れられていない。奥田静夫はその著書で『えぞ侠商伝ー幕末維新と風雲児柳田藤吉ー』(北海道出版企画センター、2008年2月)、開拓使判官松本十郎はブラキストンが資金を融通している点を重視して漁業権を認可したとしている(132ページ)。ブラキストンがスパイではないかという噂があったことにも言及している(51-52ページ)。
 (8)この写真は北海道大学付属図書館が編纂した写真集にも公表されている。それによると1878年(明治10年)の撮影となっている。北海道大学付属図書館(編)、前掲、180ページ。
(2013.9.15)

  今回の札幌行の目的は道立文書館に所蔵されている「柳田家資料」の写真を調べて必要なものをコピーすることであった。
 柳田家の創始者である柳田藤吉が日本資本主義の初期段階で果たした役割については、そのうち詳しく書くつもりだが、私との関係に限って言えば、私の家族は祖母の代から柳田家が私財を投じて築いた本町埋立地に住み、柳田家は私どもの地主であった。
 柳田家の店と屋敷と崖を隔てて真下に私の生家があった。その位置関係に私は因縁めいたものを感じるのだ。このことから私は、何か祖父母の時代に柳田家と関係があったのではないかと考えることがある。
 私どもがここに住んでいた証しは、柳田家の地代収納台帳に残されているが、本町埋立地の所有者であった柳田家は埋立地の変遷を写真に収めていたのではないだろうか、その広大な邸宅の望楼から撮影した写真が残されており、そのなかに私の生家あたりも写ってはいないだろうか、これが私の今回の調査の最大の願いであった。私の期待は実現されなかった。寄託されている写真は明治期のもので、柳田家の望楼から写したものもまったくなかった。ないはずはない。柳田家の子孫がどこにどのように暮らしているかは知らないが、ぜひとも公開してもらいたいものだ。
 寄託されている写真のうちから、私の想像力をかき立ててくれた3枚を紹介しておこう。
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 1枚目は1901年(明治34年)に撮影された本町埋立地あたりを写したものである。埋立の工事はほぼ完了しているものの、漁労用の小屋や倉庫らしき建物があるだけで、その後の赤煉瓦倉庫軍なのはまだ見られず、昆布の干し場に利用されている。その仕事に従事する漁民の姿も写っている。昆布漁は初夏に行われるから、この写真は夏に撮影されてもののようだ。対岸の弁天島にも漁労小屋とおぼしき建物が建っている。私の眼が引き寄せられたのは、湾内に浮かぶ帆船であった。これらの帆船の多くは機帆船であったと考えられる。
 機帆船はエンジン推進と帆走を併用した船で第2次大戦まで沿岸航路で活躍した。戦時下に軍隊に徴用され輸送船として利用されたらしいが、ほとんどがアメリカ軍の攻撃で沈められたと推定される。この形態の船はヨットとして残っているだけだが、近年しょうエネルギーと温室効果ガス削減のためにタンカー等の大型輸送船での応用が検討され始めている。
 柳田藤吉は、1870年(明治3年)に根室での漁業権を獲得して、帆船9隻を準備して倉庫、住居用財、漁具、漁船その他を積み込み、募集した移住希望者とともにこのまちに進出してきた。この写真に移し込まれた帆船(機帆船)は柳田家所有のものであろう。
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 そのうちの1隻でもあろうか。上架された帆船の写真があった。明治期中頃に撮影されたものという。見事な洋式の帆船でである。船尾に推進用のスクリューがあれば機帆船なのだが、写真からは確認できない。まわりに積雪が確認できるので冬に撮影されたものであろう。
 アムール川に発した流氷群は間宮海峡からオホーツク海に入り、北海道に接岸する。知床半島をかわして根室海峡に入るのは1月末から2月頃で、春が来るまでこの海峡に止まる。この間船を湾内に係留すれば船が損傷するので、冬の間陸(おか)に引き上げられる。
 この帆船はどこで建造されたものだろうか。根室に造船所がすでに作られていたとは到底考えられない。おそらく函館であろう。函館は幕末からこの国有数の造船業の中心地であった。面白いことに、『函館市史』によると、明治初年開拓使は和船の建造を禁止し西洋型帆船の建造を奨励したという。柳田のこの持ち船はその奨励策によって建造されたものだったと推定できる。
 この写真を眺めながら考えたこと二つ三つ、稿をあらためて論じてみたい。(2013.8.27)

2013年6月札幌行ー北方辺境への旅ー

 先日主治医に思い切って訊ねてみた。あと何年生きられるでしょうか、と 。足腰が丈夫ならあと10年は大丈夫でしょうとのこと。お墨付きを頂いた途端元気が出てきた。10年も元気でいられるなら、まだまだいろんなことができる。もちろん、体力の衰えはいかんともしがたく、事故に巻き込まれるリスクも大きい。突然の発作による死もあり得ることだ。それでもこのように医師に診断されると、気分は爽快、頭の回転も速くなった気がするのだから、私はまったく単純な人間だ。
 死ぬまでにしておきたい仕事は山ほどある。仕事の水準についてあれこれ言っている暇はない。とにかく書き続けたいと思う。もちろん私の研究所の本来の趣旨であるグローバル資本主義の分析は続けるが、それと並んでどうしても書き上げたいテーマが二つある。
 一つは、私の前の戦争の体験を書き遺すことである。私が北海道の一地方都市の出身である。大学入学まで過ごしたこのまちが巻き込まれた戦争で私の家族、私自身が受けた深手、しかもなお癒やされることのない心の傷を書きとどめておきたいのだ。あの辺境でなぜ戦争を強いられたのかについて調べ、考え、書きたいのだ。
 最近の憲法改正への動きを見ていると、政治家、市民ともに前の戦争の現実を知らぬまま、戦争という暴力手段の行使を主張している。前の戦争を知る人の数は日を追うごとに少なくなっているだけに、なんとしても書いておきたい。しかも北海道という辺境で戦われた戦争など広島、長崎の体験、沖縄戦、東京大空襲に比べるなら忘れられても仕方がないような規模であったことは確かだが、そこにも確かに戦争があったことを書きしるしておかねばならない。忘れ去られるのはその戦争が北海道という辺境で、しかもそのまた辺境のまちで戦われたことも影響しているのではないか。被害の規模で戦争の惨禍を区分してはならない。個人と家族が体験させられた悲しみと苦悩は規模と関わりなく同じではないか。
 北海道出身である私が長年考えていることがある。古代以来天皇制を中心に営々として構築されてきた「大和民族」と称する国民意識に、私は悩まされ続けてきた。多くの場合劣等感であった。この民族意識も歴史認識もほとんど共有する余地がなかったからだ。しかし今になってようやく、共有するために努力することも劣等感を払拭することも不要なことではなかったか考えるようになっている。
 北海道が国民意識(かりにそのようなものがあるとすればの話だが)の形成に貢献するためには、私のような出身者が持ち続けている誤った北海道認識を再検討することが必要ではないか。そのことを『札幌農学校の原罪ー内地殖民論から帝国主義的植民論へー』を執筆して表現したいと考えている。構想があまりに大きすぎて未完成に終わるかもしれないが、挑戦してみたい。
 この二つの仕事に共通している点は、どちらもこの国の過去と現在における北海道の位置の理解に関わっていることだ。古くは蝦夷と呼び習わされたこの辺境の位置は昔も今も変わっていないのではないか。沖縄、かっての琉球が維新支配階級の南進政策のかなめとして「琉球処分」によって強引に包摂されたように、蝦夷は南進するロシアに対抗するための防衛線として包摂された。ロシアに対抗するためにアメリカ合衆国の太平洋地域進出志向をたくみに取り込んで開拓政策を推進したのである。北方辺境を日本固有の領土などと言い張るのを聞くと、政治家たちに言いたい。江戸、東京の北方辺境政策の変遷を一度真剣に学習せよと。
 6月の札幌行はこの二つの課題について資料を集め考える旅であった。(2013.8.16)

私の学問と民主主義

  学問とは何だろうか。大学に集積されている知識の体系ではないかと誰でもが考える。その響きは大学の外に生きるものにとってはある種近寄りがたい雰囲気を漂わせ、それから派生する多くの言葉によって、学問は一層権威主義的な雰囲気につつまれる。
 私はこのような通俗的、権威主義的理解とは一線を画したいと思う。学問という言葉を、知識水準や社会階層にかかわりなく、学び究めるという意味で、人間の普遍的権利と理解したい。そのように理解すると、知識の体系化された集積は、大学に限定されずや誰に対しても平等に自由に開かれているものとなる。
 確かに大学で研鑽を積み学位を得て、大学教員の地位を獲得したひとたちはこの集積に独占的に接近できる特権層のようにもみえる。しかし、学問は決して彼らの独占物ではない。大学に学ぶということは学問の手ほどきをしてもらうということであって、進学できない人びとよりも接近は簡単になると言うだけのことだ。
 学問、この言葉を私はこよなく愛する。いつも学び究めることに熱中していたいと願っている。そのような意味で学者でありたいと願っている。そのことを通じて、特権者としてではなく、つねに人間的連帯感に満たさた学者であり続けたいと願っている。
 うれしいことに、この国の憲法は第23条で「学問の自由は、これを保障する」と宣言している。特別の条文によって学問に無限定の自由を保障している憲法は世界中にあまり例がないのではないだろうか。いうまでもなく、この規定は太平洋戦争とその前夜に治安維持法によって大学教授や学生たちに加えられた過酷な弾圧に対する反省を込めてのことであろう。しかし私はこの条項にそれ以上の思いを込めたい。市民的権利として、普遍的権利としてその自由を選言するからこそ大学とその構成員の活動も市民によって支持され擁護されるのだ。この関係を忘却して、特定利益集団に取り込まれたとき、あるいは提供される利益に自らすり寄る時、人類が直面する課題に真摯に対応する態度を失った時、アカデミズムはもはや大衆の支持をあてに出来なくなる。
 大衆の学びの権利との豊かな交流こそが学問の自由の保障である。民主主義という言葉こそが学問のありように最もふさわしいことばではないか。これが私の学問観であり、本書を一貫する基調である。表題を「学問と民主主義」とした理由もここにある。(2013.5.26)


 1960年末に池田内閣が「国民所得倍増計画」を決定、発表してから、すでに半世紀以上が経過した。それ以来開始されたいわゆる「高度経済成長」の時代は、東京オリンピック、大阪万博、日本列島改造等の「成功体験」を含んで神話化されている。政治的危機が深まると、この神話が思い起こされ、「経済成長」なしには豊かになれないかのような政治的態度に見事に攪乱され、国民は騙される。
 騙されるのはある意味無理もないことだ。日米安保条約改定反対運動を体験し、その直後に開始されたこの経済政策の実践を当時20歳前後で体験できた人は今では70才を超える。人口の圧倒的部分はこの実践過程を知らない人たちだ。しかも、それによって何が実現され何が失われたかという点で「高度成長」以前を知る人はもっと少ない。それだけに、「高度成長」を体験した人々、とりわけそれ以前を知る人々は率直にこの時代を振り返り、それが実現したものを総括して後の人々に残すべきだと思う。それは決して年寄りの繰り言やあいもかわらぬ昔話と片付けられてはならない。
 同時に、大なり小なり戦後の先進諸国を捉えた経済成長に比較して日本の成長過程は特異なものであったことは確かである。「西ドイツ経済の奇跡」と賞賛された戦後西ドイツ経済でさえその速度という点では比べものにならない程度であった。しかし問題は「率」ではない。何が実現されたのか、何が壊され何が残ったかが問題なのだ。社会の深部に至るまで捉えきり国民をあげてエコノミックアニマルと化してしまったような体験は日本に特異なものではないか。
 国民の忘れっぽさと世代交代をいいことに、またぞろ繰り返され、将来に付け回しをする愚かしい経済政策に対する対抗するためには、体験した者は率直に語るべきだ。率や数値の比較ではなく、社会の深部まで捉えたこの国の大変動の時代の体験を語るべきだ。外国を知るものはその体験と日本の現実との比較を語るべきだ。
 数回にわたることになるが、あまり論理的ではない私の戦後経済史体験を書き連ねてみたいと思う。
  
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かって現代史は資本主義と社会主義のイデオロギー的、体制的対立過程を軸に展開されるものと解されていた。それ以外の諸国はどちらの体制に包摂されるかにその将来がかかっていた。社会主義の解体後、現代史の構造は激変した。体制的対立の基底にあった多様な歴史構造が全面に立ち現れ、社会科学者は突然無知の状態に投げ込まれたのである。自分は知っていたと強弁するひともいるかもしれないが、私は率直に無知を認める。
 杉山正明氏の著作は、ユーラシア大陸理解のためには欠かせないものだと思うから、主なものは読ませてもらっている。その流れの中でこの書物も買ったのだが、その大部分の内容に失望して、積ん読の棚に放り込まれた。「大家」ともなると、講演テープをおこしたものや、すでに発表したものの採録だけで本ができあがる。この種のものを読むのは苦痛以外の何物でもない。最近になって第3章(これも採録で書き下ろしではないのだが)だけ読みたくなり、積ん読の棚から引き出された。
 第3章「世界史はこれから創られるー日本発の歴史像への道ー」にだけ関心を持ったのは、近年のグローバル化に対応した新しい世界史の構築をめぐる論議に対する問題提起を含んでいるからだ。世界経済論、地球経済論とは言いながら、経済学者の時代認識ほどいい加減なものはない。いい加減と言うよりも、むしろ鈍感で問題の意味を理解していないように思われる。ヨーロッパ中心、アメリカ中心の時代認識も歴史認識も終焉の時を迎えている。問われているのはグローバル資本主義が寄生する世界経済の全体構造にどのようにして接近するのか、そのような理論的、実証的営みに対応した歴史認識をどのように獲得していくかであろう。戦後の独立運動の激流の結果としていまや200もの独立国が存在する。ということは、200もの国民史が存在すると言うことだ。独立を期待する民族を含めるならば無限大の拡張の可能性がある。それらを総括した統一的な世界史を執筆することなど、愚か者が夢想することではないだろうか。
 ヨーロッパに発する世界史認識は捨て去ろう、中華思想に彩られてゆがんでしまった中国中心史観も捨て去ろう、我が国を連発する国史認識も捨て去ろう。そうした上で何ができるかを考えよう。普遍的世界史が書けるなど夢想である以上、私たちに残されているのは様々な試みを付き合わせ、全体像に接近する多様な道に謙虚に学んでいく以外にないだろう。
 杉山氏の地域横並びの試みはその方向への重要な手がかりになりうるものといえよう。そんことによって地域間の紛争も交流も全く新しい視点から観察分析できるし、氏の主張するように、「国家」「民族」「部族」という概念も比較によって再検討が可能になる。
 歴史学者の問題提起を経済学者も真摯に受け止めるべきだろう。資本主義分析はいつの段階でも「一国分析」をその最終目標にしていた。その場合、分析対象の国境の外に広がる「未開の地」や「暗黒大陸」などどうでもよかった。帝国主義の時代になると、植民地支配の願望が強まり、支配する側でも支配を脱しようとする側でも、地域や民族についての研究が深まった。地球全体をその深部に至るまで支配しようとするグローバル資本主義の登場は、それに対応して地域や国の研究の深化が求められる。それはGDP分析のような表層をなで回す程度のものではないことは確かであろう。(2012年9月20日)
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 地球大的経済の全体像を捉えきるという課題への接近のかなめは中国の理解であることは異論をまたないであろう。この国こ関する私の知識は驚くほど少ない。かって左翼学生として学んだ中国論は今では全く役に立たない。それだけにこの国の現状や歴史について、少しはまともに見える書物を発見すると、可能な限り目を通すようにしている。本書も目についた一冊であるが、率直に言わせていただくと、失望した。開発独裁モデルというかってよく聞いたような概念が再登場し、アラブの春以前のアラブ独裁体制もすべてこの概念でくくるのだからやりきれない。しかも、欧米モデルと社会主義モデルの中間的形態として積極的に理解する。彼のとらえ方にならうなら、北朝鮮もミャンマーもすべてここにくくり込まれることになるのではないか。これでは大ざっぱすぎる。もっと精緻な区分を求めたい。
  著者の課題はこの国が一党支配に基づく権威主義的体制から欧米型の民主的体制への脱却の道筋を示すことにあるらしい。彼の主張のかなめは、今進んでいる上からの改革には限界がある意見はあまりに「生態的」「決定論的」だと批判し、ゴルバチョフ的な急進的自己改革をとらずに、漸進的な改革を支持することにある。支持すると言うよりも願望しているといったほうが正確だろうか。
 分析によって問題点を抉り出すよりも、著者は随所に論証のない願望を示すことによって問題を回避している。一党支配を放棄する条件はどのように成熟しているのか、改革を求める国内の民主化運動がはたしてその核心に迫れる力量とスローガンを提示できるのだろうか。その点についての明確な指摘がなくては、「雪だるま式に自由化が拡大する可能性」に期待するなどと言っても、説得力がない。
 本書の欠陥は、中国の政治権力の中枢にある人民解放軍についての分析がないことにある。共産党に服属する、いうならば私兵のような軍隊がいったい自由化の過程でどのような役割と位置を占めることになるのか、詳しく知りたいところだ。さらにもう一つ、民族問題、とりわけウイグル族、チベット族の抑圧は自由化の核心ではないのだろうか。著者はこの問題を意識して避けているように思えてならないのだが。(2012年9月18日)
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  浜矩子さんの評論は楽しい。舌鋒鋭く迫り、一刀両断というにふさわしい明快さは魅力的である。多くのエコノミストと称する連中が現状肯定的な論説を振りまき、所属する企業の利益には触れまいとする態度で世に害毒を振りまいている中で、浜さんの批判的態度は立派である。
 本書を書店で手にして中身をよく吟味せずに買ってしまった。視力低下のなせる技ではあるが、中国経済につても相当の知識を持っておられるのかと驚き、興味をそそられたからだ。
 案の定、これは中国経済それ自体の分析ではなかった。看板に偽りありということだ。中国経済論を語ろうというのではなく、中国を手掛かりとしてグローバル経済の真相に迫るのが狙いであると第1章で明言しているから、良しとしよう。しかし、このような視点は一国の経済を解明するには不可欠のことではないか。その意味では本書は中国経済論を説いていると思う。否定される必要はない。中国経済、あるいは中国資本主義が直面する危機は、グローバル資本主義の段階の最重要構成要素であることによって進化しているのだから。GDPや工業生産高の比較で中国の位置を論じるのはやめようではないか。
 鄧小平の改革開放の大号令によって始まった海図なき船出はいまや転機を迎えていると言わざるを得ない。浜さんの書きぶりは中国資本主義の全体像を明らかにしていく上で示唆に富んでいる。
 アジアの多くの国が、一党独裁や軍部独裁、国家資本主義の体制を維持したままグローバル資本主義に組み込まれつつある。ベトナム、ミャンマーに始まり、いずれは北朝鮮へと続くに違いない。中国を分析することはこれらの国の将来を明らかにするのに有効であろう。改革開放政策は多国籍企業の低賃金労働力と資源を提供し、金融投機の機会を拡大するだけのことなのに、鄧小平が決断したように、もはやそのコースに身を委ねる以外には活路を見いだせない。しかし官僚制度と軍の保持する利権との矛盾が深まるのは避けられない。
 かって社会主義経済論をテーマにしていた研究者たち、マルクス経済学者たちはいったいどんな仕事をしているのだろうか。金太郎飴のように、どこを切っても浜矩子ではつまらないではないか。(2012年5月29日)