2013年8月アーカイブ

  今回の札幌行の目的は道立文書館に所蔵されている「柳田家資料」の写真を調べて必要なものをコピーすることであった。
 柳田家の創始者である柳田藤吉が日本資本主義の初期段階で果たした役割については、そのうち詳しく書くつもりだが、私との関係に限って言えば、私の家族は祖母の代から柳田家が私財を投じて築いた本町埋立地に住み、柳田家は私どもの地主であった。
 柳田家の店と屋敷と崖を隔てて真下に私の生家があった。その位置関係に私は因縁めいたものを感じるのだ。このことから私は、何か祖父母の時代に柳田家と関係があったのではないかと考えることがある。
 私どもがここに住んでいた証しは、柳田家の地代収納台帳に残されているが、本町埋立地の所有者であった柳田家は埋立地の変遷を写真に収めていたのではないだろうか、その広大な邸宅の望楼から撮影した写真が残されており、そのなかに私の生家あたりも写ってはいないだろうか、これが私の今回の調査の最大の願いであった。私の期待は実現されなかった。寄託されている写真は明治期のもので、柳田家の望楼から写したものもまったくなかった。ないはずはない。柳田家の子孫がどこにどのように暮らしているかは知らないが、ぜひとも公開してもらいたいものだ。
 寄託されている写真のうちから、私の想像力をかき立ててくれた3枚を紹介しておこう。
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 1枚目は1901年(明治34年)に撮影された本町埋立地あたりを写したものである。埋立の工事はほぼ完了しているものの、漁労用の小屋や倉庫らしき建物があるだけで、その後の赤煉瓦倉庫軍なのはまだ見られず、昆布の干し場に利用されている。その仕事に従事する漁民の姿も写っている。昆布漁は初夏に行われるから、この写真は夏に撮影されてもののようだ。対岸の弁天島にも漁労小屋とおぼしき建物が建っている。私の眼が引き寄せられたのは、湾内に浮かぶ帆船であった。これらの帆船の多くは機帆船であったと考えられる。
 機帆船はエンジン推進と帆走を併用した船で第2次大戦まで沿岸航路で活躍した。戦時下に軍隊に徴用され輸送船として利用されたらしいが、ほとんどがアメリカ軍の攻撃で沈められたと推定される。この形態の船はヨットとして残っているだけだが、近年しょうエネルギーと温室効果ガス削減のためにタンカー等の大型輸送船での応用が検討され始めている。
 柳田藤吉は、1870年(明治3年)に根室での漁業権を獲得して、帆船9隻を準備して倉庫、住居用財、漁具、漁船その他を積み込み、募集した移住希望者とともにこのまちに進出してきた。この写真に移し込まれた帆船(機帆船)は柳田家所有のものであろう。
P6240042.JPG
 そのうちの1隻でもあろうか。上架された帆船の写真があった。明治期中頃に撮影されたものという。見事な洋式の帆船でである。船尾に推進用のスクリューがあれば機帆船なのだが、写真からは確認できない。まわりに積雪が確認できるので冬に撮影されたものであろう。
 アムール川に発した流氷群は間宮海峡からオホーツク海に入り、北海道に接岸する。知床半島をかわして根室海峡に入るのは1月末から2月頃で、春が来るまでこの海峡に止まる。この間船を湾内に係留すれば船が損傷するので、冬の間陸(おか)に引き上げられる。
 この帆船はどこで建造されたものだろうか。根室に造船所がすでに作られていたとは到底考えられない。おそらく函館であろう。函館は幕末からこの国有数の造船業の中心地であった。面白いことに、『函館市史』によると、明治初年開拓使は和船の建造を禁止し西洋型帆船の建造を奨励したという。柳田のこの持ち船はその奨励策によって建造されたものだったと推定できる。
 この写真を眺めながら考えたこと二つ三つ、稿をあらためて論じてみたい。(2013.8.27)

2013年6月札幌行ー北方辺境への旅ー

 先日主治医に思い切って訊ねてみた。あと何年生きられるでしょうか、と 。足腰が丈夫ならあと10年は大丈夫でしょうとのこと。お墨付きを頂いた途端元気が出てきた。10年も元気でいられるなら、まだまだいろんなことができる。もちろん、体力の衰えはいかんともしがたく、事故に巻き込まれるリスクも大きい。突然の発作による死もあり得ることだ。それでもこのように医師に診断されると、気分は爽快、頭の回転も速くなった気がするのだから、私はまったく単純な人間だ。
 死ぬまでにしておきたい仕事は山ほどある。仕事の水準についてあれこれ言っている暇はない。とにかく書き続けたいと思う。もちろん私の研究所の本来の趣旨であるグローバル資本主義の分析は続けるが、それと並んでどうしても書き上げたいテーマが二つある。
 一つは、私の前の戦争の体験を書き遺すことである。私が北海道の一地方都市の出身である。大学入学まで過ごしたこのまちが巻き込まれた戦争で私の家族、私自身が受けた深手、しかもなお癒やされることのない心の傷を書きとどめておきたいのだ。あの辺境でなぜ戦争を強いられたのかについて調べ、考え、書きたいのだ。
 最近の憲法改正への動きを見ていると、政治家、市民ともに前の戦争の現実を知らぬまま、戦争という暴力手段の行使を主張している。前の戦争を知る人の数は日を追うごとに少なくなっているだけに、なんとしても書いておきたい。しかも北海道という辺境で戦われた戦争など広島、長崎の体験、沖縄戦、東京大空襲に比べるなら忘れられても仕方がないような規模であったことは確かだが、そこにも確かに戦争があったことを書きしるしておかねばならない。忘れ去られるのはその戦争が北海道という辺境で、しかもそのまた辺境のまちで戦われたことも影響しているのではないか。被害の規模で戦争の惨禍を区分してはならない。個人と家族が体験させられた悲しみと苦悩は規模と関わりなく同じではないか。
 北海道出身である私が長年考えていることがある。古代以来天皇制を中心に営々として構築されてきた「大和民族」と称する国民意識に、私は悩まされ続けてきた。多くの場合劣等感であった。この民族意識も歴史認識もほとんど共有する余地がなかったからだ。しかし今になってようやく、共有するために努力することも劣等感を払拭することも不要なことではなかったか考えるようになっている。
 北海道が国民意識(かりにそのようなものがあるとすればの話だが)の形成に貢献するためには、私のような出身者が持ち続けている誤った北海道認識を再検討することが必要ではないか。そのことを『札幌農学校の原罪ー内地殖民論から帝国主義的植民論へー』を執筆して表現したいと考えている。構想があまりに大きすぎて未完成に終わるかもしれないが、挑戦してみたい。
 この二つの仕事に共通している点は、どちらもこの国の過去と現在における北海道の位置の理解に関わっていることだ。古くは蝦夷と呼び習わされたこの辺境の位置は昔も今も変わっていないのではないか。沖縄、かっての琉球が維新支配階級の南進政策のかなめとして「琉球処分」によって強引に包摂されたように、蝦夷は南進するロシアに対抗するための防衛線として包摂された。ロシアに対抗するためにアメリカ合衆国の太平洋地域進出志向をたくみに取り込んで開拓政策を推進したのである。北方辺境を日本固有の領土などと言い張るのを聞くと、政治家たちに言いたい。江戸、東京の北方辺境政策の変遷を一度真剣に学習せよと。
 6月の札幌行はこの二つの課題について資料を集め考える旅であった。(2013.8.16)

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