柳田家と私の関わり(1)ー2013年6月札幌行ー

  今回の札幌行の目的は道立文書館に所蔵されている「柳田家資料」の写真を調べて必要なものをコピーすることであった。
 柳田家の創始者である柳田藤吉が日本資本主義の初期段階で果たした役割については、そのうち詳しく書くつもりだが、私との関係に限って言えば、私の家族は祖母の代から柳田家が私財を投じて築いた本町埋立地に住み、柳田家は私どもの地主であった。
 柳田家の店と屋敷と崖を隔てて真下に私の生家があった。その位置関係に私は因縁めいたものを感じるのだ。このことから私は、何か祖父母の時代に柳田家と関係があったのではないかと考えることがある。
 私どもがここに住んでいた証しは、柳田家の地代収納台帳に残されているが、本町埋立地の所有者であった柳田家は埋立地の変遷を写真に収めていたのではないだろうか、その広大な邸宅の望楼から撮影した写真が残されており、そのなかに私の生家あたりも写ってはいないだろうか、これが私の今回の調査の最大の願いであった。私の期待は実現されなかった。寄託されている写真は明治期のもので、柳田家の望楼から写したものもまったくなかった。ないはずはない。柳田家の子孫がどこにどのように暮らしているかは知らないが、ぜひとも公開してもらいたいものだ。
 寄託されている写真のうちから、私の想像力をかき立ててくれた3枚を紹介しておこう。
P6240025R.jpgのサムネール画像のサムネール画像
 1枚目は1901年(明治34年)に撮影された本町埋立地あたりを写したものである。埋立の工事はほぼ完了しているものの、漁労用の小屋や倉庫らしき建物があるだけで、その後の赤煉瓦倉庫軍なのはまだ見られず、昆布の干し場に利用されている。その仕事に従事する漁民の姿も写っている。昆布漁は初夏に行われるから、この写真は夏に撮影されてもののようだ。対岸の弁天島にも漁労小屋とおぼしき建物が建っている。私の眼が引き寄せられたのは、湾内に浮かぶ帆船であった。これらの帆船の多くは機帆船であったと考えられる。
 機帆船はエンジン推進と帆走を併用した船で第2次大戦まで沿岸航路で活躍した。戦時下に軍隊に徴用され輸送船として利用されたらしいが、ほとんどがアメリカ軍の攻撃で沈められたと推定される。この形態の船はヨットとして残っているだけだが、近年しょうエネルギーと温室効果ガス削減のためにタンカー等の大型輸送船での応用が検討され始めている。
 柳田藤吉は、1870年(明治3年)に根室での漁業権を獲得して、帆船9隻を準備して倉庫、住居用財、漁具、漁船その他を積み込み、募集した移住希望者とともにこのまちに進出してきた。この写真に移し込まれた帆船(機帆船)は柳田家所有のものであろう。
P6240042.JPG
 そのうちの1隻でもあろうか。上架された帆船の写真があった。明治期中頃に撮影されたものという。見事な洋式の帆船でである。船尾に推進用のスクリューがあれば機帆船なのだが、写真からは確認できない。まわりに積雪が確認できるので冬に撮影されたものであろう。
 アムール川に発した流氷群は間宮海峡からオホーツク海に入り、北海道に接岸する。知床半島をかわして根室海峡に入るのは1月末から2月頃で、春が来るまでこの海峡に止まる。この間船を湾内に係留すれば船が損傷するので、冬の間陸(おか)に引き上げられる。
 この帆船はどこで建造されたものだろうか。根室に造船所がすでに作られていたとは到底考えられない。おそらく函館であろう。函館は幕末からこの国有数の造船業の中心地であった。面白いことに、『函館市史』によると、明治初年開拓使は和船の建造を禁止し西洋型帆船の建造を奨励したという。柳田のこの持ち船はその奨励策によって建造されたものだったと推定できる。
 この写真を眺めながら考えたこと二つ三つ、稿をあらためて論じてみたい。(2013.8.27)

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このページは、kitanihitoが2013年8月27日 20:33に書いたブログ記事です。

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