2013年6月札幌行ー北方辺境への旅ー

 先日主治医に思い切って訊ねてみた。あと何年生きられるでしょうか、と 。足腰が丈夫ならあと10年は大丈夫でしょうとのこと。お墨付きを頂いた途端元気が出てきた。10年も元気でいられるなら、まだまだいろんなことができる。もちろん、体力の衰えはいかんともしがたく、事故に巻き込まれるリスクも大きい。突然の発作による死もあり得ることだ。それでもこのように医師に診断されると、気分は爽快、頭の回転も速くなった気がするのだから、私はまったく単純な人間だ。
 死ぬまでにしておきたい仕事は山ほどある。仕事の水準についてあれこれ言っている暇はない。とにかく書き続けたいと思う。もちろん私の研究所の本来の趣旨であるグローバル資本主義の分析は続けるが、それと並んでどうしても書き上げたいテーマが二つある。
 一つは、私の前の戦争の体験を書き遺すことである。私が北海道の一地方都市の出身である。大学入学まで過ごしたこのまちが巻き込まれた戦争で私の家族、私自身が受けた深手、しかもなお癒やされることのない心の傷を書きとどめておきたいのだ。あの辺境でなぜ戦争を強いられたのかについて調べ、考え、書きたいのだ。
 最近の憲法改正への動きを見ていると、政治家、市民ともに前の戦争の現実を知らぬまま、戦争という暴力手段の行使を主張している。前の戦争を知る人の数は日を追うごとに少なくなっているだけに、なんとしても書いておきたい。しかも北海道という辺境で戦われた戦争など広島、長崎の体験、沖縄戦、東京大空襲に比べるなら忘れられても仕方がないような規模であったことは確かだが、そこにも確かに戦争があったことを書きしるしておかねばならない。忘れ去られるのはその戦争が北海道という辺境で、しかもそのまた辺境のまちで戦われたことも影響しているのではないか。被害の規模で戦争の惨禍を区分してはならない。個人と家族が体験させられた悲しみと苦悩は規模と関わりなく同じではないか。
 北海道出身である私が長年考えていることがある。古代以来天皇制を中心に営々として構築されてきた「大和民族」と称する国民意識に、私は悩まされ続けてきた。多くの場合劣等感であった。この民族意識も歴史認識もほとんど共有する余地がなかったからだ。しかし今になってようやく、共有するために努力することも劣等感を払拭することも不要なことではなかったか考えるようになっている。
 北海道が国民意識(かりにそのようなものがあるとすればの話だが)の形成に貢献するためには、私のような出身者が持ち続けている誤った北海道認識を再検討することが必要ではないか。そのことを『札幌農学校の原罪ー内地殖民論から帝国主義的植民論へー』を執筆して表現したいと考えている。構想があまりに大きすぎて未完成に終わるかもしれないが、挑戦してみたい。
 この二つの仕事に共通している点は、どちらもこの国の過去と現在における北海道の位置の理解に関わっていることだ。古くは蝦夷と呼び習わされたこの辺境の位置は昔も今も変わっていないのではないか。沖縄、かっての琉球が維新支配階級の南進政策のかなめとして「琉球処分」によって強引に包摂されたように、蝦夷は南進するロシアに対抗するための防衛線として包摂された。ロシアに対抗するためにアメリカ合衆国の太平洋地域進出志向をたくみに取り込んで開拓政策を推進したのである。北方辺境を日本固有の領土などと言い張るのを聞くと、政治家たちに言いたい。江戸、東京の北方辺境政策の変遷を一度真剣に学習せよと。
 6月の札幌行はこの二つの課題について資料を集め考える旅であった。(2013.8.16)

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このページは、kitanihitoが2013年8月16日 09:32に書いたブログ記事です。

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