2013年9月アーカイブ

P6240042.JPGのサムネール画像
  もう一度あの帆船の写真に戻ろう。
 この帆船は柳田家の持ち船だたことは確実だ。船体もマストのバランスも、帆船についてまったく知識のない私の眼にも見事なものに映るのだから、柳田がこの船を写したことには特別の意味があったように思われるのだ。
 柳田藤吉は松前藩時代から幕府直轄支配の時代に継承された場所請負制度の廃止を機に根室に漁業権を獲得し、仲買商人から漁業経営者に転じた。1871年(明治3年)に帆船8艘に現地ですぐに建てられるように切組みした家屋や倉庫、漁船、漁具そのた一切の必需品を積み込み、永住者と雇い入れた漁民を引き連れてこの地に乗り込んだ(1)。
 この写真の船を含め、帆船はどこで調達されたのだろうか。函館であることは間違いない。幕末、明治初期の函館は洋式帆船建造の先進地域であった(もっともそれ以前にも幕末の豪商高田屋の造船所があり、和船建造の中心地でもあった。このことの意味については後でまた触れる)。
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 1855年(安政2年)、函館の船大工続豊治、辻松之丞(5代目)によって日本で初めてスクーナー型帆船が建造された。この二人に島野市郎治、イギリス人トムソンがこの頃造船所を構えていたといわれる(2)。維新政府が1870年(明治3年)に近代化政策の柱として「商船規則」を制定し、日本型帆船から西洋型帆船への転換を基本政策に掲げ、後者の奨励を宣言したことにより、函館の造船所の地位はさらに高まった(3)。少し時代は下るが、1878年(明治10年)頃の函館の造船所の活況ぶりを示す写真を示しておこう(4)
 西洋型帆船への転換についてもう少し論じておきたい。石井謙治によると、維新政府は1886年(明治18年)7月に500石積み以上の日本型帆船の建造を禁止する法律を制定する。北前船船主が抵抗はしたことはいうまでもないし、当時の船大工の技術水準では西洋式帆船に全面的に転換することは不可能であった。そのため西洋式帆船のほとんどは、日本型を巧みに換装した、いわゆる「合いの子船」であったという。その方がはるかに安価に建造できたことも影響しているであろう(5)。
 石井の仕事をふまえて前回の根室港の写真を見ると、そこに映る帆船のほとんどは「合いの子船」のようだ。それに対し、上架された柳田の帆船は明らかに本格的な西洋式である。
 その船を写したことに特別の意味があるように思われる。帆船が当時どれほど高価なものであったか知らないが、それを8艘も仕立て、漁船、漁具、家屋倉庫まで賑々しく運び込み、多くの雇い人や移住者までも輸送するとは、そのための資金は相当な額にのぼったことは十分い想像できる。商人として成功していたとしても、進出の事業を一挙に実現するほど手許資金が潤沢であったあったとは考えられないのだ。『根室市史』にその点について注目すべき指摘をしている。
 『根室市史』は「松本十郎翁談話」に依拠して、柳田の進出は当時函館で活躍していたイギリス人商人ブラキストン(6)を銀主(ぎんす)としていたとする。つまり資金を出したのはブラキストンだったということだ(7)。松本十郎は開拓使の幹部だった人物で、彼のこの指摘には信憑性がある。
 ブラキストンはイギリスのスパイ、あるいは情報提供者だったのではないか。イギリスにとってロシアの極東における動向に関する情報は重要だったはずだったし、北海道開拓に積極的に関わり始めたアメリカの動きも気になったはずだ。柳田が根室に進出し、そこを拠点に千島列島に進出してくれれば、情報がほしいブラキストンにとっては言うことなしの融資話であったはずだ。柳田の根室進出のために必要な巨額の資金を提供したことにはこのような背景があったのではないか(この視点はそのうち稿を改めて論じるつもりでいる)。
 ブラキストンがスパイであったかどうかはおくとして、彼がパトロンであるなら、この船の建造者はトムソン造船所ということになるだろうか。
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 1880年(明治12年)に根室を写した写真がある(6)。柳田が根室に進出して7年たった頃の町並みである。観察のために、一部分を拡大してみた。柳田は1885年(明治7年)7月に移住しているから、移住後5年たった風景でもある。写真のつなぎ目あたりに写る柳田の店舗と居宅はまだ仮屋で、その後に建てられた大邸宅とはえ
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らい違いである。本町埋立地の工事もまだ始まっていないが、埋立が終わった頃の写真に写る小屋はすでにそこに建っている。おそらく函館で切組みして持ち込んだ建物であろう。当時の海岸線も興味を引く。この海岸は私の時代には「漁師町」と通称され、沿岸で漁をする零細漁民の地区であったと記憶している。それ以上に漁船の数が多いのに驚かされる。漁労小屋だけでなく造船所とおぼしき建物もある。その背後にある建物は雇い人や移住者たちの住居であろうか。この写真には写っているのは柳田の領域で、柳田の邸宅の反対側のネムロベツには柳田と覇を競った藤野喜兵衛の漁場があった。そこにもほぼこれと同じ風景があったはずだ。
 藤野の漁場も含めてこれほどの数の漁船をいったい誰が建造したのだろうか。すべてを函館で建造したとは考えられない。和船を建造するのに必要な職人たち、木挽き、鍛冶屋もすでにここに定住していたに違いない。彼らはどこの出身だったのだろうか。主原料である木材はどこから仕入れたのだろうか。彼らの道具はどこで作られ、調達されたのだろうか。このようなことを調べ推理することは楽しいことだ。
  しかし、この推理が私のかすかな記憶とどのように結びつくのか、私の家族の運命とどのように関わってくるのかについて夢想するのが本来の目的なのだから、前置きは楽しくてもほどほどにしなければならない。前置きの分析はまだ続くが、少しずつ原点に近づいていくことにしよう。


 (1)柳田辰男編『天真の流露ー柳田藤吉の記録抄ー』、東京、1992年8月1日、9ページ、『根室市史』、上巻、1968年7月30日、354ページ。
 (2)『函館市史』第2巻、1039-1044ページ
 (3)石井謙治『和船』、?、法政大学出版局、1995年7月、114ページ。
 (4)北海道大学付属図書館(編)『明治大正期の北海道 1868-1926』「写真編」、北海道大学図書刊行会、1992年7月、135ページ。
(注5)石井謙治、前掲、115-118ページ。『函館市史』によると、開拓使は1876年(明治8年)5月に北海道に船籍を持つ者については、500石以上の和船の新建造を禁止する布達第4号を出している。維新政府よりも2年早い禁止令であった。『函館市史』、前掲、1041-1042ページ。
 (6)ブラキストン、正確にはトーマス・W・ブレーキストン(1832-1891)はイギリス人で軍人出身の探検家、博物学者。津軽海峡に生態系の境界線(ブラキストン線)があることを指摘したことで著名である。シベリアで林業を経営しようとしたがロシア側の同意を得られず、その後は函館を拠点に貿易活動に従事した。そのころに柳田と親交を深め、柳田を資金面で支援していたようだ。
 (7)ブラキストンとの関係は、奇妙なことに柳田一族が出版した上述の書物ではまったく触れられていない。奥田静夫はその著書で『えぞ侠商伝ー幕末維新と風雲児柳田藤吉ー』(北海道出版企画センター、2008年2月)、開拓使判官松本十郎はブラキストンが資金を融通している点を重視して漁業権を認可したとしている(132ページ)。ブラキストンがスパイではないかという噂があったことにも言及している(51-52ページ)。
 (8)この写真は北海道大学付属図書館が編纂した写真集にも公表されている。それによると1878年(明治10年)の撮影となっている。北海道大学付属図書館(編)、前掲、180ページ。
(2013.9.15)

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