アメリカ艦載機の波状攻撃に逃げ惑ったあの日ーJアラートを嗤(わら)ってばかりいられないー

 10年ほど前から、「私の戦争」という統一テーマで括って、私が生まれ育った北の小さなまちでの戦争体験の記憶を呼び起こし、調査で裏付けながら書き綴っている。「序章」にあたる部分は、2014年8月に『すり込まれている筈の風景』という表題でアマゾンで電子書籍化している。本論に相当する部分については、病院通いの合間を縫って資料を集め分析し書いている最中だ。比較的まとまったものになるとPDFファイルに変換してブログに公表している。来年夏あたりには『私の故郷で闘われた戦争』(仮題)として電子書籍として発表するつもりでいる。全体の構想が書き上がるのはいつになるかわからない。
 70数年も前の戦争の話など、しかも北の田舎まちでの体験など関心を持って読んでくれる人は少ない。それでも時々思わぬ所から反応がある。つい先日も北海道空襲について調べてウェブに公表している若い人がアメリカの国立公文書館で探し当てた米軍撮影の写真を紹介してくれた。体力があれば一度アメリカに調査に行きたかったのだが、もう不可能だろうと考えていただけにうれしかった。写真はどれも1945年7月15日の早朝に撮影されたもので、その中から3枚だけを少々鮮明にして紹介しておきたいと思う。

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 1枚目はおそらく早朝の第一波攻撃の後のまちを東側から撮影したものだ。3カ所で火の手が上がっている。一番奥の火の手が私の住んでいた本町埋立地、一番手前が私が通っていた花咲国民学校あたりだ。前者は倉庫地帯だが、アメリカ軍は上空から造船所があると誤認したようだ。後者は軍隊が常駐していたが上空からは識別できなかったはずで、とにかく海岸近くの大きな建物なので狙ったのだろう。わからないのは、真ん中辺の火の手である。住宅地で軍事施設も大きな建物もない地域であった。あきらかに誤爆である。あるいは当時の戦闘機の命中率の低さによるものであろう。多くの命がここで失われた。

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 2枚目の写真を紹介するのは、攻撃を回避して散開する無数の徴用船が写っているからだ。そのほとんどは漁船であったとと推定される。沖の方にも確認されるから、おそらく100隻以上はいたのではないか。前日7月14日の空襲は徴用船を攻撃目標にしていたというから、その時に撃沈された隻数を加えると、あの小さな湾にいかに多くの徴用船がひしめいていたかがわかる。何隻沈められ、何人が殺されたかはわからない。その数は空襲被害者の数に加えられることはいまだに実現していない。写真右に立ち上る黒煙は攻撃で炎上し、必死に岸までたどり着いて力尽きた徴用船であろう。

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 3枚目の写真が私にとっては最高の贈り物となった。長い間探し求めていたものだ。すでに炎上しはじめている本町埋立地の様子が鮮明に写しだされているからだ。その一部を拡大してみた。私の生家もはっきりと写っていた(数字1で示した場所がそこだ)。それを確認できたとき、私は思わず落涙した。父は祖母を救出するためにまだ家の中に止まっていたのだろうか。すでに燃えはじめているから、救出を断念して脱出していたに違いない。
 どうしてわが家を確定できたのか。一つは家の玄関を出た時の光景を私はこの年齢になっても鮮明に記憶しているからだ。真向かいが三
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洋館アパート(数字2)、細い通りを隔てて三洋館が左手にあった(数字3)。もう一つは裏の崖との距離感だ。柳田本店との屋敷は小高い崖の上に立っていて、その崖はわが家の真裏に迫っていた。父はこの崖を掘って防空壕を作ろうとしたが、岩盤のあまりの堅さに諦めたことを覚えている。崖との位置関係から見て、わが家はここしかない。
 戦争の頃は簡単な市街地図であっても軍事機密として公表が禁止されていたから、当時のまちの様子を確認できる資料がない。それを米軍が戦果を記録するために撮影した写真で確認するとは、なんということだろう。言葉もない。

 逃げ遅れて焼死した祖母の埋葬許可証には午前8時に死亡と記されている。この時間が正しいとすれば、その直前に撮影されものと推定される。その時間には私は地域の防空壕(数字5)に逃げ込んでいたか、すでに脱出していた。三洋館の裏から火が出たと消火活動をしていた大人たちから情報が入った。真向かいの三洋館が燃えるとこの防空壕に火がつくのは時間の問題で、ここに止まれば全員が焼死することは確実だった。逃げようと誰ともなく言い出して、それそれの家族が勝手に判断して脱出したのだった。私の家族は艦載機の攻撃が止んだ頃を見計らって脱出し、防空壕横の坂道を駆け上がった。駆け上がったところで爆音が聞こえ、慌てて防空壕を探し、柳田本店前の壕に逃げ込んだ(数字6)。幸いなことに壕に入ることを拒否されなかった。その後については、上述の『すり込まれている筈の風景』を読んでほしい。
P9180067_NEWR.jpg 艦載機の波状攻撃は熾烈を極め、多くの爆弾が投下されて埋立地は完全に破壊された。常駐していた軍隊は一切防戦せず、なすがままにさせたのであった。数年前に入手した焼け跡の写真を示しておこう。これが地方の小さなまちを襲った戦争の結末であった。物的な破壊に止まらず、そこには多くの死があった。私の祖母を含む住民たち、兵士たち、そして消火に駆けつけた消防士たちも殺された。写真には消火に駆けつけた消防車が3台写っている(数字4)。猛火と爆風で消火など到底不可能であったことは、写真からも理解できる。そして攻撃で沈められた徴用船の乗組員たち、何隻沈められ何人殺されたかはいまだにわからない。

 若い時代には人間の知性や感性は時として後退はあるものの、進歩するものと確信していた。この確信は最近になった揺らぎはじめている。前の戦争の時代に権力者たちが侵した愚行が忘れ去られ、それどころか、忘れ去られたように見えることをいいことに愚行を再現しようとは想像だにしなかった。その一つが最近の「防空演習」騒ぎだ。私たちは戦争中の体験とりわけ広島長崎の体験に学び、忘れさせて国民を掌握しようとする権力者の意図を見抜くべきなのだ。
 残念ながら、私の世代の戦争体験と後悔の念は継承されないどころか無視されている。ナチスが犯した悪行をドイツ人の犯罪として教育することを義務としてきたドイツでさえ、人種主義者が国政選挙で議席を獲得するような事態に立ちいたっているのだから、前の戦争を悔悟と反省の念を込めて学習する態度などさらさらない政治家が支配するこの国で思いが伝わらないのは至極当然のことにも思える。しかし、核戦争の危機が煽られ、戦争の危機が日に日に感じ取られる今、そんな悲観的態度に埋没しているわけにはいかないのではないか。 
 前の戦争の「防空演習」は国民の生活と生命を、今流の政治表現を使えば「安全」を守ってはくれるものではなかったた。防火用水と火たたき、バケツリレーではB29や艦載機の攻撃から身をまもれるはずもなかった。建設を強いられた防空壕も同様であった。しかも、必勝の信念で敵に立ち向かえと強要するだけで、どうやって逃げるか、どうやって身を守るかについてはまったく教えられなかった。だから火災に巻き込まれるか直撃弾で多くの人命が失われることにもなったのである。防空演習と防空壕は国民を戦争目的に協力させ、掌握するための手段でしかなかった。このことを決して忘れてはならない。
 核戦争の時代、攻撃によって瞬時に多くの人命が失われる戦争の時代にこのような児戯に等しい対応策が公然と実施されてよいものだろうか。かって桐生悠々は「信濃毎日新聞」1933年(昭和8年)8月11日号紙上に「関東防空大演習を嗤う」と題する論説を書き、軍部の計画していた首都での防空演習の虚構を痛烈に批判した。彼はこの論説によって信濃毎日を追われたのだが、この論説はいまなお言論人のあるべき批判的態度として賞賛されている。私も彼に倣い、私の戦争体験をふまえていつも嗤っている。
 しかし核戦争が現実味を増している今、「嗤う」という表現はもはや適切ではないだろう。嗤ってばかりはいられない時代にはいっているのではないだろうか。あのような愚かしい戦争への動員の実態を示してから国民を目覚めさせるのは緊急の課題ではないだろうか。

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