2014年2月アーカイブ

太田昌秀・新川明・稲嶺恵一.pdf
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  「沖縄」という地名を聞くたびに、私はいつも熱くなっていたものだ。学生時代に自治会の幹部として沖縄返還運動に関わり、沖縄の本土復帰実現に自分なりに全力をあげてきた当時を思い起こすからだ。
 同時に最近の私は、忸怩たる思いにとらわれる。基地のない核のない沖縄を、憲法9条にしたがって平和を希求する日本に取り戻そうという思いは、1972年に当時の総理大臣佐藤栄作が主導して実現した返還によってものの見事に封じ込められてしまった。核付き基地付き返還どころか、この国の保守勢力が憲法を無視して走り出すきっかけとなってしまった。こともあろうにその佐藤栄作が返還を実現したことが評価されてノーベル平和賞まで授与されたのだからたまらない。
 権力側に返還という運動目標があのように見事なまでに盗み取られて以来、いったい憲法の掲げる平和を守るという理想のために私は何をしてきたのか、普天間・辺野古問題に対していったい私はいま何ができるのか、いつも自問していた。体力が許すなら、沖縄に出かけて闘争に参加したい気持ちは募るばかりであった。
 沖縄返還を要求して闘っていた頃の私は、政治的には独立した国として存在していた琉球王国を暴力的に併合した1879年の「琉球処分」についての知識はまったくなかったといってよいだろう。高等学校の日本史でも教えられなかったし、大学の講義でも同様だったと思う。沖縄県人に対して根深い差別意識があることも関西に住むようになってはじめて知った。併合によって彼らは貧困のなかに押し込められ、本土への低賃金労働力の供給地の地位を与えられにすぎなかったのである。
 大阪市の旧港あたりに沖縄県人が集中して住む地域がある。彼らが沖仲仕という厳しい肉体労働に従事して時代の証である。大阪の綿工業を支えたのは君が代丸にのって渡航してきた朝鮮人たちだけでなく、多くの若い沖縄出身の女性たちであったことも忘れてはなるまい。沖縄はまた、海外移民の最大の送り出し地域であった。戦前の沖縄が日本という国の中で占めている位置は明らかだ。
 これらのことは、私が経済学者として関西に住んではじめて知ることができた事実であった。学生時代の私は何の疑いもなく沖縄と本土が民族的に一体であることを信じ疑わなかったのである。
 あの頃盛んに唄われた「沖縄を返せ」という労働歌がある。デモ行進や集会の時に唄われる定番の曲であった。いまその歌詞を読み返してみると、歌詞のつじつまがあわず、あの頃を熱く思い起こすよりもむしろ違和感のほうが大きいのだ。

  かたき土を破りて  民族の怒りに燃える島 沖縄よ
  我等と我等の祖先が血と汗をもて
  守り育てた沖縄よ
  我等は叫ぶ沖縄よ  我等のものだ沖縄は
  沖縄を返せ  沖縄を返せ
        (作詞:全司法福岡支部 作曲:荒木栄)

 ここでいう「民族」とは琉球・沖縄民族のことなのだろうか、それとも単一民族的理解に立つ日本民族のことなのだろうか。いま私の乏しい知識を手がかりに考えると、そのように理解した方がいいように思うのだが、あの当時は運動を指導していた日本共産党も含めて単一民族論に染め上げられていたように思う。民族としての一体性を信じて疑わなかった思う。権力の側と運動の側との奇妙な一致があったのだ。
 「我等」とは誰のことなのだろうか。本土の市民と理解すると、併合の歴史的事実と合わなくなる。沖縄は本土の市民が「血と汗」で守り育てたものではなく、明治政府が暴力的に併合し、過酷な同化政策によって日本の一部とされ、貧困の中に押し止められたままにされたのだから。
 「我等」が沖縄県民を意味するのであれば、この歌の内容はいまでも訴えるものがある。事実、この歌は沖縄ではいまでも集会やデモの時にうたわれているという。ただ、最後の「沖縄を返せ 沖縄を返せ」の後半部分を「沖縄に返せ」としているのだそうだ。
 沖縄について正しく学ばねばならないと考えるようになった。そのうえで、なおアメリカ軍基地を押しつけられてその重圧にあえぎ、中央政府の差別的な政策に苦悩する沖縄県民との連帯の新しいあり方を模索しなければならないときが来ていると思っていた。そのような時にこの本に遭遇したのである。(2014.2.23)

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