私の学問と民主主義


   学問とは何だろうか。誰でもが大学に集積されている知識の体系ではないかと考える。その言葉の響きは大学の外に生きるものにとってはある種近寄りがたい雰囲気を漂わせ、それから派生する多くの言葉によって、学問は一層権威主義的な雰囲気につつまれる。
 私はこのような権威主義的理解とは一線を画したいと思う。学問という言葉を、知識水準や社会階層にかかわりなく、学び究めるという意味で、人間の普遍的権利と理解したい。そのように理解すると、知識の体系化された集積は誰に対しても平等に自由に開かれているものとなる。
 大学で研鑽を積み学位を得て大学教員の地位を獲得したひとたちは、この集積に独占的に接近できる特権層のようにもみえる。しかし学問は決して彼らの独占物ではない。大学に学ぶということは学問の手ほどきをしてもらうということであって、進学できない人びとよりも接近は容易になると言うだけのことではないか。
 学問、この言葉を私はこよなく愛する。いつも学び究めることに熱中していたいと願っている。そのような意味で学者でありたいと願っている。そのことを通じて、特権者としてではなく、つねに人間的連帯感に満たさた学者であり続けたいと願っている。
 うれしいことに、この国の憲法は第23条で「学問の自由は、これを保障する」と宣言している。特別の条文によって学問に無限定の自由を保障している憲法は世界にあまり例がないのではないだろうか。いうまでもなく、これは戦前に治安維持法によって大学教授や学生たちに加えられた過酷な弾圧に対する反省を込めての宣言であろう。しかし私はこの条項にそれ以上の思いを込めたい。市民的権利として、普遍的権利としてその自由を宣言するからこそ大学とその構成員の活動も市民によって支持され擁護されるのだ。この関係を忘却して、特定利益集団に取り込まれたとき、あるいは提供される利益に自らすり寄る時、人類が直面する課題に真摯に対応する態度を失った時、アカデミズムはもはや大衆の支持をあてに出来なくなる。
 大衆の学びの権利との豊かな交流こそが学問の自由の保障である。民主主義という言葉こそが学問のありように最もふさわしい言葉ではないか。これが私の学問観であり、本書を一貫する基調である。表題を「学問と民主主義」とした理由もここにある。

【付記】2013年8月に刊行した電子書籍をPDFとして公表することにした。

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このページは、kitanihitoが2014年5月28日 20:37に書いたブログ記事です。

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