くぎぬきさんー習俗が生きる社会こそ健全(1)ー

   くぎぬきさんにお参りしてお札を頂いてきた。千本上立売を少し北に行くとこの寺がある。気づかずに通り過ぎてしまうほど小さなお寺である。正式名は石蔵寺(しゃくぞうじ)、通称くぎぬき地蔵、地元の人は親しみをこめてくぎぬきさんと呼ぶ。弘法大師の創建といい、大師自身が石に刻んだとされる地蔵尊が本尊である。さまざまな苦しみを抜き取ってくれるということか「釘抜」の名で信仰され、参詣者が絶えない。境内にはさまざまな形の釘抜きのシンボルが飾られ、お堂の壁一面に釘抜きと釘をあしらった絵馬が掲げられている。

 10年ほど前にR0010658.JPG大腸にがんが発見され開腹手術を受けたが、幸い転移もなく完治した。全快治癒を祈ってこの寺のお札を持って見舞にきてくれた人がおり、しばらく書斎の棚に飾られていたが、捨てるわけにもいかず寺に持参した。返すだけというわけにもいかず、再度祈祷をお願いする羽目になった。数え年齢の数だけお堂をまわると願いが聞き届けられるという。挑戦したが20回ほどで止めた。残りを実行することはそのままになっていた。
 一昨年夏突然左肩が上がらなくなった。そのような不信心のせいでもないだろうが、お堂をまわらることを中断したままであることが気になった。1年半あまりのリハビリで生活に支障がない程度にまで回復はしたにはしたが、まだ不安が残っている。その不安に一定の区切りをつけるために再度お札を頂きにきたのであった。
 「以前に年の数だけまわることに挑戦したのですが、私の年ではもう無理なようです」。お寺の人の言うには「それなら何回かに分けてまわられたらいかがですか」。「そのうちに来るのを忘れてしまうかもしれないですし」。「それなら数え年齢の1桁目と2桁目の数を足した数だけという方法もありますよ」「あなた様の場合は7と5を足して12回で結構です」。このような便法があるなら前回も教えてくれたらよかったのにと思った。
 竹の棒を12本持ち、1回まわるごとに棒を箱に戻す。肩が動かなくなってから身体のバランスが悪くなり、歩行に不安を感じていたのだが、 若い人に混じってとにもかくにもまわりきった。充足感
があった。
 以前の私を知っている人たちなら、あの唯物論者で合理主義
者の私が神仏の前で手を合わているときっと驚くに違いない。確かに生きることへの不安は年ごとに高まってはいる。身体にメスを入れなければもはや生きられない年齢になったのだという現実は避けて通れない。
 しかし、あえて理屈を言うならば、信仰するという行為は人間社会に本来備わっているものだ。程度の差こそあれ宗教が社会の格にある。その周囲に習俗としてさまざまな制度がある。それは生活の安定の基礎である。合理主義を徹底して追求した現役時代は終わりに近づき、ようやく本来の人間的なものに再び気づき始めているのだ(続)。(2010.2.26)

 

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