「教養」とは何か

  「教養」という言葉に悩まされ続けてきた。地方出の私は「教養」がないと、あるいは学究たるために必要な「素養」を欠いていると実感させられることはたびたびだった。それらの言葉の意味を考えているうちに、肝心の「教養」「素養」という言葉が消えてしまった。それに代わって流行しはじめたのが「知」や「・・力」なる表現だ。社会に内在的な連帯の仕組みが解体され、ばらばらにされた個人の力能の差異に注目されるようになったのである。しかもその力能は資格や検定で測定されるかのような状況を生み出している。大学はダブルスクールと化し、学生たちは本来の大学教育よりも可能な限り多くの資格を取得するために狂奔する。その結果、この分野の業者たちの格好の餌食となりはてているのだ。先日世間を騒がせた漢検で膨大な不正利益を得ていた京都の親子などその好例であろう。
 見過ごせないのはこの傾向に合わせて、脳科学者と称する評論家が跋扈しはじめていることだ。個人の力能の差異を脳の構造に還元する風潮すら生みだし始めている。
 これらの動きは、国家権力によって積極的に利用され始めている。いわゆる「格差」問題である。個人的力能があると認定されものは拾い上げられ、残りはドロップアウトさせられる。非正規雇用に呻吟する若者たちはおまえたちの力のなさのためだと宣告される。
 「教養」とはかっては選ばれたものたちの特権であった。しかもそれは支配階級のために選ばれたものたちの特権であり、その集団や階層が持つべき知的獲得物の集積であり、生活態度でもあった。大学の歴史や思想史から明らかになるように、そこからは「左翼的」なもの、「急進的」なものは排除された。私の学生時代には左翼であると言うことだけで、大学のギルド的養成システムから排除された。大学教師への夢を諦めざるを得なかったK・マルクスの例を想起するまでもなく、戦後アメリカのマッカーシズム、戦後日本のレッド・パージが大学史、思想史に隠れもなく記録されている。
 社会全体の「知的」「教養的」水準はおろか、勝利したという資本主義のリーダーたち、またその幹部候補生たちの資質低下は目に余る。ろくに演説もできず、演説原稿も書けない政治家たち、あとを絶たない汚職、官僚たちの無能ぶりをみるにつけ、「教養」を標榜した教育を破壊し、大学を専門性重視の高等教育機関に作り替えた教育政策の結果ではある。壊したけれども
 2009年2月2日に経済同友会は「18歳までに社会人としての基礎を学ぶー大切な将来世代の育成に向けて 中等教育、大学への期待と企業がなすべきことー」を発表した。これを読むと笑いを禁じ得ない。大学における教養課程を打ち壊して専門教育中心に作り替えた連中が教養の再興を目指すというのだから。
 かって支配的だった特権的「教養」観は今では通用しない。保守的支配層が固執する排他的愛国主義も、どれほど声高に主張しても今の時代に通用する筈がない。特権的な、対立的な教養とは区別された普遍的教養と生活態度が求められる時代なのだ。
 求められている「教養」と生活態度はどのようなものか。第1に、地球環境問題、世界平和、人口爆発と貧困等の地球的問題群への理解と日常の実践である。第2に、地球上のあらゆる文化との対話の態度である。第3に、国民である以上に、地球市民として思考し行動する態度である。この三つの原則が大学教育だけでなく、「基礎学力」の理念として保持されるべきであろう。

 

PICT0006.JPGのサムネール画像

 

 

 

 

 

 

 

 

《あとがき》
 この論考は「京都グローバリゼーション研究所通信」第4号(2009年9月)に掲載したものだが、「グローバル人材」育成論に対するアンチテーゼとしてブログに収録することにした。(2011.1.27)

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