科学者に社会的責任を自覚させるにはどうしたらよいかー池内了氏の意見を読んで考えたことー

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 東北大災厄を契機にこの国の多くの病巣ももえぐり出された。政治の混迷と政治家のていたらく、東京電力を初めとして企業経営者の社会的責任の欠落には言うべき言葉もない。大学と科学者の無責任ぶりにも、この国の大学と科学研究の危機を実感させる。病巣を取り除く抜本的な手術が必要なのに、その方策も見いだせずにいる。病にかかっていることさえわからない状況ではないのか。
 メディアの登場して原発大災害を解説する原子炉工学専門の教授たちの態度に憤激したのは、私だけではあるまい。私の世代の表現を使えば御用学者ばかりだ。彼らはおそらく何のためらいもなく時流に身を任せ、それが自分たちの使命だと考え、主張し、行動してきた。原子力発電に反対するものたちの意見を無視し、あるときは嘲笑してきた。研究費を出してくれる企業への忠誠こそが彼らの行動規範であった。だからこそ安全神話を何のためらいもなく受け入れ、宣伝したのだ。大災厄を前にして彼らはこれまでをどのように自省しているのだろうか。国民の安全、人類の安全を守る態度に転換したのだろうか。それとも反原発のうねりがいずれ沈静化することを期待してじっと息を潜めているのだろうか。地震学者たちの態度も同じようなものだ。地震予知という技術の開発に向けて膨大な国家予算の支出があった筈なのに、国民の安全のためという姿勢を貫いて研究していたとは思われない。「想定外」「予想外」という表現は、彼らの免罪符には決してならない。このような無責任な流れや縄張り意識で予算を独占してきた仕組みを抱えている大学や学会は今後どのように姿勢を正していくのだろうか。エネルギー政策や電力産業のあり方について怪しげな議論を展開した社会科学者も同罪である。
 そんなことを考えているときに、『日本経済新聞』2012年3月10日付紙面に「科学者と社会ー池内了さんに聞くー」と題する長大な記事がのった。対談の形式ではあるが、科学者の社会的責任の問題を取り上げた編集委員清水正巳氏に敬意を表したい。清水氏は、東北大災害によって科学者、技術者に対する信頼は失われた、それについて反省の言葉は聞かれはするが、科学者の社会的責任の問題はなおくすぶっているとする。率直にいえば、私にはその「反省の声」さえ聞こえてこない。
 そのよい例を一つあげておこう。日本学術会議は科学者を代表する機関とされている。かっては有権者の投票によって選出された会員によって構成され、科学者の議会のようなものだった。それが今日あるような、あってもなくてもよいような機関に作り替えられてしまったのである。この組織はいったい何を考えて行動しているのか、ホームページをを覗いてみたところ、2012年1月の大西誠会長の「会長からのメッセージ」を発見した。そこからすこし引用しておこう。
 「昨年3月に起こった東日本大震災による津波災害と原子力発電所事故によって大きな被害が出たことは、この現代科学のの不完全さをえぐり出すとともに、不完全な科学を応用に利用することに関わる現代科学者の悩みをも露わにしたといえます。日本学術会議もこの問題からは無縁ではなく、国土や都市を構成するのに利用されてきた科学的知見のどこに脆弱性があったのか、原子力発電技術の不完全さとそれを応用するに際して慎重さへの認識がなぜ不足していたのか等を自問しつつ、・・・」
 この文章には「反省」という表現すれ見られない。災害によって「不完全さ」がえぐり出され、「不完全」なものを応用することへの科学者の「悩み」をも露わにした、「不完全」なものを応用する際の「慎重さ」に欠けていたとか曖昧な表現に終始し、社会的責任の自覚などみじんも感じられない。科学的認識は不完全で相対的なものだと言うことは科学者には自明のことではなかったのか。これが科学者たちの態度の最大公約数的な表現であるというなら、情けないと言うほかはない。
 日本学術会議会長の態度を長々と引用したのは、池内氏の主張と対比させ、それを手掛かりに科学者の社会的責任のあり方を考えてみたいからである。うやむやにせず、くすぶっている火を燃えさからせたいからである。池内氏の意見はいまの風潮の中では少数意見であろう。このような声をもっと大きくしなければならない。
 彼の意見には大筋で賛成であるが、挑戦的であるためには、もっと具体的に批判して対案を示して欲しい。そういう視点から、彼の問題提起を私の論理ですこし補強してみたいと思う。
 池内氏はまず、科学者は政府やスポンサーの方ばかり向いて、市民の方を向いてこなかった、市民に対して科学の成果のマイナス面も含めて率直に語ってこなかったと主張する。その通りである。そもそも大学とは、市民の側からの付託と信頼によって成り立っているのに、そのことはすっかり忘れられてしまったようだ。大学は「大学の先生」に対する市民の信頼と尊敬の念によって支えられてきた。「象牙の塔」にこもって何を研究しているのかわからなくても、市民は大学とその構成員を信頼したのである。そのような関係はとっくに消滅しているように見える。その責任は科学者と大学の側にある。大学の規模が大きくなりすぎて、市民の側の評価や批判を考慮にいれることなく組織の論理が一人歩きし始めたのである。
 科学者がパトロンに尻尾を振るかのような態度は最近の国立大学の法人化を契機に見るに堪えない状況になっている。いかに外部から資金を調達するかが、その大学が国内での競争に勝ち抜くために重要な条件とされ、いきおい資金を獲得する縁故のある教員の発言権が強くなる。教員の評価にあたって、大学の外での社会貢献が重要項目となり、政府や自治体の審議会の委員をやっている教員は当然評価が高くなる仕組みになってしまった。このような状態では科学者が市民の側にたつなどというのは希有の事例であることは明らかだ。市民のために活動するなど変わり者のすることで、彼らが大学の主流になることなどいまの状況ではあり得ないだろう。
 成果のマイナス面を科学者は率直に語ってこなかったと池内氏は言う。科学者がそのように振る舞うならば、今の制度の下では彼らは確実に葬り去られるだろう。必要なことは、研究成果に関する情報開示と大学の内外からの批判の自由を制度的に保証することだ。その目的のために大学の制度を変えることが必要である。残念ながら、経済成長至上主義に巻き込まれ、パトロンへの忠誠を誓う主流の科学者が自己改革に足を踏み出すことは考えられない。結局は、今まで以上に生態系に被害を及ぼしかねない「研究成果」を何の制約もなしに放出し続けることになるのだ。
 池内氏は科学者は「傲慢」になっていると指摘し、原因は細分化された専門性にあるとする。確かにその通り。細分化された学会で第一人者を気取る輩を、私もうんざりするほど見てきた。細分化すればするほど「権威」と「第一人者」が増えることになる。しかし、「傲慢」の原因はそれだけではない。政治権力や研究費を提供するパトロンとの緊密な関係が「権威」と自他共に認める輩の立場を強くしている。
 科学者は自分の力で、自分の頭の良さや能力によって自分で光っていると勘違いしているのではないか。あってもなくてもいいような研究が維持されているのは、大学に対する市民の信頼によってであることが忘れ去られている。科学者は初心に返って市民や社会との本来あるべき関係を回復して謙虚でなければならないと思う。
 最後に、池内氏は若手研究者に科学者の社会的責任を教えることの重要だとする。しかし、「社会的責任」とは何か、若手研究者に限って教えると言うことはどういう意味なのか、それこそが問題ではないか。
 科学者個人が負うべき社会的責任を考えなけれならないことはいうまでもないが、それとあわせて組織としての大学が負うべき社会的責任も確認されなければならない。営利企業でさえ、またその経営者でさえ「企業の社会的責任」の遵守を社会から求められている。ただ日本企業の主流はまだこの時代の流れを理解していない。社会的責任を社会に対する適切な製品とサービスの提供と理解し、メセナその他による利益の社会還元と理解しているむきがある。また、最近の相次ぐ日本企業内部での経営者のスキャンダルは、世界の注目を集めた。どうしてこんな愚にもつかないことが発生するのだろうか。「社会的責任」の意味が日本ではまだ理解されていないからだ。そのうえ、経営者たちは負うべき責任について学生時代も含めて学んだことはなかったのではないか。
 このことはそっくりそのまま大学と科学者について当てはまる。法令遵守、情報開示、説明責任等、企業に課せられる責任概念は最低限遵守されるべき責任として自覚され、制度化されなければならない。その上で、科学者に固有の責任概念の確立が求められるのではないか。
 医師の世界では、いわゆる「ヒポクラテスの誓い」が倫理性の規範として存在する。医学の世界では生命を扱うことから倫理的制約がある程度制度化されている。倫理的規範が医学部でどのように教育されているのか、違反に対する処罰が医師会や学会によってどの程度まで具体化されているのか私は詳しくは知らないが、とにかく規範が存在する。ところが、科学者全体についてはそれに類する規範は存在しない。
 大学の自治、研究の自由という普遍的規範は、政治や宗教の権力との長い闘争の歴史の中で獲得された。日本の場合でも同様だ。戦前の治安維持法による科学者への弾圧を考えてみたらよい。大学の自治と研究の自由は多くの先達の犠牲によってはじめて得られたものだ。それらの歴史的体験と教訓の集積がすべて忘れ去られ、私の世代までは自明のことと思われていた規範がすでに消失しているのあるならば、私はあえて言いたい。もう一度科学の歴史を、日本の大学自治をめぐる歴史を謙虚に学んでほしい、と。
 最後にもう一つ強調しておきたいことがある。地球環境危機を初めとする全地球的課題が深刻になっている今、地域住民や国民に限定されずに地球的視野で研究することが科学者に求められている。その責任を自覚せずに卑近な利益への奉仕に終始するならば、この国の大学も学術研究も確実に衰滅する。(2012.4.30)

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