アンチエイジングで格差はさらに拡大する

 私は老人と呼ばれることを好まない。それには二つの理由がある。一つは私自身の内部にある長命への願望である。生きて時代の変遷をつぶさに観察したいという気持ちは募るばかりである。もう一つは最近の老人軽視の風潮への抵抗からである。最近の風潮は軽視を乗り越えて視と表現した方が適切かもしれない。時には密かに抹殺を狙っているのではないかと感じることもある。
  儒教的世界では、老人は智慧を集積した人生の達人であり、そのようなものとしてつねに崇敬の対象であった。いまでも教師のことを「老師」と呼ぶ国もある。年齢の若い教師でも「老師」なのだ。この国でもかってはそのような慣習があったと思う。しかしいまでは高齢者の智慧は無視され、肥大化して後の世代に過大な社会保障費の負担を強いる厄介者と見なされている。老人であること、高齢者であること、そう見なされることは愉快なことではない。
 その一方で最近、「アンチエイジング」などという言葉が流行しはじめた。意味がよくわからないものの、高齢者医療の発展に限らず、長命への願望も含んでいる議論のように、勝手に解釈してきた。少し古い話になるが、医療ジャーナリストの三室勇さんから「老化の正体ー”老い上手”になるためにー」というタイトルでお話をうかがったことがある。その講演で私ははじめて、長寿の問題は願望の水準をとっくに通り越して、今世紀初めにアメリカの学者が老化を司る遺伝子を発見し、その遺伝子とたくみに折り合いをつければ、人間は120歳くらいまで生きられるという議論にまで進んでいるというのだ。話をうかがいながら、私はまったく別のことを考えていた。いまもそのことを考え続けている。そのことを少し書いておきたいと思う。
 老いのメカニズムが生理学的に解明されていくことそれ自体は結構なことだ。しかしながら、老いを考察する場合、生物学的、生理学的視点だけでよいものだろうか。私どもは社会的、経済的に老いを強いられている。現在の雇用慣行では否応なしに60歳から65歳なると定年という形で解雇され、年金生活者となる。120歳まで生きれられるというなら、私たちはこの仕組みを抜本的に作り替えなければならないのではないか。その年金すら生活を維持するのに十分なものではないとすれば、いったいどうやって120歳に到達できる経済的、社会的条件が保証されるというのだろうか。
 明らかにこれには社会の階層性が潜んでいるといわざるを得ない。つまりお金があり社会的地位の高い人は遺伝子によい食事をし、適度の運動をして長生きするのに、お金がない人はその反対でそれなりの年齢になれば死ぬということなのだ。いまや死期さえも社会的、経済的に規定され。
 先日本屋で白澤卓二『寿命は30年延びるー長寿遺伝子を鍛えれば、みるみる若返るシンプル習慣術ー』(幻冬舎新書、2012年7月)見つけ、買い求めた。白澤氏はアンチエイジングの分野でマスメディアに頻繁に登場する売れっ子の大学教師である。
 生活の技術として学ぶことは多いが、読み進めるうちに、率直にいって失望した。若々しく生きたいという願望は高齢者に共通するものではあるが、それを実現する手立てを経済的に確保できる人は少ないのではないか。それと長命を願う動機付けの問題がある。何のために生きるのか。趣味の暮らしをし、いうなら遊び続けることだけが人生といえるだろうか。働くことの意義の問い直しが必要ではないか。
 私の場合、長く生きてこの世と地球の激変を観察しきって死にたいと願っている。それだけが学んできたものとしての望みである。100歳まで生きるには、人の世話にならずに歩行できて、料理その他の身の回りのことが自分でできることが大前提だが、その準備もしているつもりだ。はたして願いが実現するだろうか。
 この種の書物を読むといつも考えさせられることがある。著者たちは、世界の人口がますます増加し、そのほとんどが栄養状態も医療も先進国の水準にははるかに及ばない状態で生活していること、気候変動による異常気象にさらされて甚大な被害を被るのも彼らであることを、せめて頭のどこかででも意識して書いているのだろうか。この種の本を、置き去りにされている地域の人たちが読む機会があれば、おそらくこれはこの世のものではないと考えるだろう。あまりの違いに仰天し、気絶する人もいるかもしれない。(2012年11月22日)

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