タヴィアーニ兄弟監督『塀の中のジュリアス・シーザー』ー刑務所演劇の多重の寓意ー

 イタリア人の映画監督タヴィアーニ兄弟の最新作『塀の中のジュリアス・シーザー』をみた。彼らの作品のいくつかは私の映画史に残っている。1984年に発表された「カオス・シチリア物語」、1987年の「グッドモーニング・バビロン」、とりわけ前者を見たときの衝撃はいまも私の気分のなかに残っている。イタリア文化の多層性とそれがが生み出す人間の生き様をあのように描けるイタリアの芸術家たちを羨ましく思ったものだ。文化の多層性を認めようとせず、ひたすら東京の視点から発信し続ける日本の「作家」たちと比較してのその問題提起の重さの故にいまもあの映画のことを考え続けている。
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 今度の映画はこれまでみた彼らの映画とはまったく違う。手法は実験的で斬新、テーマは政治的なものだ。この映画のおもてむきの主題はローマ近郊の刑務所で実際に行われているという演劇実習をモノクロでドキュメンタリーのように写し出す。シェークスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を教材に取り上げ、受刑者たちの経歴を紹介しながら配役が決められていく。稽古が始まる。彼らの台詞回しの出来はわからないが、舞台が仕上げられていく中で本物
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の俳優と見まがうばかりの演技とアンサンブルが出来上がっていく。それだけに彼らが劇場でその達成感を歓呼の声で表す情景は感動的だ。この部分だけがカラーで撮影されている。いままでに見た映像化されたシェークスピア劇のどれよりも質の高い上演であったと思う。
 上演終了後にそれぞれの独房に連れ戻される彼らの足取りは、達成感を身体で表現した歓呼とは対照的に重くもの悲しい。独房の扉が閉じられ鍵がかけられた直後に主演者の一人がつぶやく。「芸術を知ると、監獄は牢獄となる」。これこそがこの映画でタヴィアーニ兄弟が主張したことだったのだ。芸術(さらには学術も)の奥義に迫ることは人間を自由にする。それだけに科せられた軛(くびき)は自由への希求を高めるのだ。
 この映画を観ながら、そして観た後もこの映画の寓意は何かを考え続けている。自由に課せられた軛は監獄内部に止まらない。現代社会がまさに監獄的状況にあるともいえる。規制や軛を科せられて育った人たちにとっては、奥義に迫ることすら危うくなっているというのに、そのことの自覚には至らないでいる。そうであるからこそ、自由を希求して闘った者たち、その自由を享受して生きた者たちは、そのことの意味を声を大きくして訴えねばならない。作者の意図の一つはそこにあったのではないだろうか。
 『ジュリアス・シーザー』は現代政治の混迷、ポピュリズムに似せた人間関係を描いていて面白い。古典がこれほどまで現代を読み解く鍵になるとは、学ぶべきことは多い。
 タヴィアーニ兄弟の兄ヴィットリオは1929年生まれ、弟パオロは1931年生まれという。私よりはるかに上の年齢でこの旺盛な実験的精神に敬意を表したい。私も彼らに倣い簡単に老いるつもりはない。(2013年4月14日)

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