電子情報・出版文化はこのままでよいのか(2)

 紙による出版は技術的にみてすでに限界が見えている。紙の文化の保存と継承をめぐる事態は深刻である。酸性紙の劣化が想像以上に進んでいるからだ。国会図書館法によって献本を義務づけられているので、あの書庫には残る筈と安心していたら、とんでもないことになる。放置すればすべてが塵になってしまうからだ。このままでは紙を媒体にした文化は後世に残らない。すべての蔵書のデジタル化が緊急の課題となっている。書物だけではない。マイクロフィルムに保存されているはずの新聞なども、フイルムの劣化が進んでいる。国会図書館はいま書物のデジタル化に懸命だが、はたして劣化の速度に追いつけるのか、疑問である。地方の公共図書館となると事態はもっと深刻である。貴重書とされるわずかばかりの文献のデジタル化が実現されているに過ぎないのだ。やっていますというアリバイ証明のようなものだ。
 大学図書館などまったく展望が見えていない。学会誌等の定期刊行物のデジタル化ようやく始まったばかりである。問題はバックナンバーの紙質の劣化で、その部分はほとんど手がつけられていない。研究成果を社会の全構成員に公表するのは大学の社会的責任である。そうだとすれば、この遅れはいったいどう評価したら良いのだろうか。
 世界的にみると、ユネスコの支援を得てエジプトのアレクサンドリア市に建設されたアレクサンドリア図書館は、かって古代地中海世界における同名の図書館の歴史的位置を思い起こさせるかのように、デジタル化の世界的センターとして活動を開始している。いまや紙の文化の成果をデジタル化し、地球大的な保存と利用のネットワークを構築する事業が開始されているのだ。アレクサンドリア図書館のホームページを覗いているみると、どういうわけか国会図書館の名がないのだ。
 映画の登場によってはじまった映像文化の保存も危機に瀕している。フイルムの収集と保存がおくれているだけでなく、フイルム自体の劣化が進んでいる。
 現状では、紙とフィルムのよる現代文化の記録をそのまま後世に残すことは絶望的である。土建資本を潤すに過ぎない道路やビルを作るよりも、このような文化的事業に積極的に財政支出してもらいたいものだ。雇用を生み出すことは確実であり、そのノウハウでODAの内容も充実するのではないか。
 紙の書物のデジタル化は、死蔵にも近い古い資料に接する機会を広げてくれ、資料探しのためにわざわざ東京に出かける必要もなくなる。結構なことだ。しかしよく考えてみると、デジタルライブラリーにアクセスできる条件には明らかな格差がある。誰でもアクセスできるという点では平等化が進んだかに見えるが、必要な端末が十分に普及し、インフラストラクチュアとして公共施設に整備されているとはいいがたい。整備するのに必要な財政負担もさることながら、行政担当者の態度にも問題があるからだ。
 IT技術は日進月歩、電子書籍をめぐる状況も私のような素人が必死に習得を試みるよりも速いテンポで変化している。このテンポに、この技術によって開かれた文化的秩序が持つべき公共性が追いついていない状況は明らかである。さらにいえば、本来公共財として展開されるべきものが、巨大私企業による独占とそのグローバルな経営戦略によって翻弄されている矛盾は深刻になるばかりだ。このことは電子出版にもっともよく表れている。このことは次回に論じることにしよう(続)。
(2013年5月21日)

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