電子情報・出版文化はこのままでよいのか(3)

 IT技術は日進月歩、電子書籍をめぐる状況も私のような素人が必死に習得を試みるよりも速いテンポで変化している。このテンポに、この技術によって開かれた秩序が持つべき公共性が追いついていない。電信電話技術のように本来は公共的なネットワークである筈のものが、あるいは一定の公的規制に包括されるべきものが、技術を独占する多国籍企業の販売戦略とネットワーク独占に委ねられている。そのことがさまざまな歪みを生み出している。
 何よりもまず、利用のルールが確立されないままに発展したため、情報を発信するものが持つべき倫理性の欠落状況がますます深刻になっている。集積されている個人情報を売り渡す事件は後を絶たず、漏洩するはずもない個人情報が関係のない組織の手に渡り利用されている。
 ハッカーの跳梁、ヴィールス汚染は私のような個人利用者のPCにまで及んでいる。匿名にによる書き込み、誹謗や中傷の書き込み等の急増は目に余る。それらのトラブルはすべて個人の責任での解決を求められ、場合によってはかなりの経済的支出と時間の浪費をともなう。私もその事態に遭遇して回復のために悪戦苦闘している。
 国家や大企業が私企業によって開発されたシステムに依拠して情報を管理し公開する以上、つねにその情報が盗み取られ、破壊されるというリスクを覚悟しなければならない。サイバー攻撃、サイバー戦争という表現をメディアで見ない日はないほど、私ども庶民が知らないところで熾烈な闘いが展開されている。
  政府が準備しているいわゆる国民総背番号制も、権力による国民管理が強化されるというだけでなく、国民の個人情報が流出したり、破壊されたりするリスクにさらされることをあらかじめ想定しておくべきだろう。日本の公権力はサイバー攻撃に十分な対応能力を持っているとは考えられないだけに、この政策は愚策としか言いようがない。
 サイバー攻撃や情報の盗み出しは今では、反権力闘争の様相を帯び始めている。J・アサンジが創設したウィキリークスの活動、アノニマスのグループの活動、最近の元CIA職員、E・スノーデンのアメリカ諜報活動の実態の暴露等、権力の中枢に関わる情報がやすやすと進入され暴露されるという事態が発生している。個人や小集団でも権力を揺るがすことができるという状況はかってない政治文化の大変動ではないか。
  これらの活動は権力の側から見れば許しがたい犯罪行為だが、多くの若者によって支持されている。情報発信の自由の実感は、この情報発信・アクセスの自由のあり方をめぐる政治的対立の構図をつくり出している。中国における情報統制は言うまでもなく、情報に対する国家統制は強化される傾向にある。T技術に長けた若者を中心にこのような動きに抗してさまざまな政治結社が登場し、ヨーロッパの海賊党のように政治文化に一定の地歩を築きつつある。
 IT技術が実現した得も言われぬ平等感覚は、権力による脅しや干渉によって決して消し去られるものではない。海賊党等の活動はこれまでの古典的とも言うべき政治的手法や駆け引き、プロパガンダに比べるならば稚拙なものに見えるが、若者たちによるこの動きはもはや止めることは出来ないのではないだろうか。ただ、この国の若者たちについていえば、スマホという玩具の中毒に冒されて、およそ情報の自由など考えたこともないような雰囲気をつくり出している。もっともこの高級玩具を権力が強制的に取り上げるなどということになったら、だだっ子のように騒ぎ立てるかもしれない。
 かって登場した技術のなかでこれほどまでに急速にしかも深部に至るまで社会を捉えた技術はあっただろうか。しかも関連多国籍企業の競争と協調を公的に規制することもなく、スノーデン氏の暴露が明らかにしたように、利用者である大衆の目の届かないところで政府に協力して人権侵害を深刻なものにしている。ある程度は予測できたことではあったにしても、侵害がこれほどまでに無原則で広範囲に行われているとは。将来社会を危惧する声がもっとほうぼうから聞こえてきても良いのではないか。
 このような無秩序な制度からどのような社会が将来生まれるのか、私には予測すらつかない。電子文化ははたして人類に豊かさをもたらすだろうか。イギリスの作家ジョージ・オーウェルが1949年に著した『1984年』で示されたような超管理社会への道を歩み始めるのだろうか。何の抵抗も起こらなければ、その可能性は大きくなっていると言わざるを得ない。そうであるなら、私たちは手に入れた平等の感性を権利にまで高めていく努力の積み重ねが必要なのではないか。電子情報の発信も電子書籍もその意味では抵抗のための重要な手段となる。(続)(2013.6.22)

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