庭木への愛ー庭木といえども命があるー

 隣家の所有者は入院中で、庭木の手入れもならず繁りっぱなしであった。道路にまで広がった枝は枯れ葉をまき散らし、誰の目にも空き家の風情を醸し出していた。先日植木屋が入り、あっという間に大胆に刈り込んだ。刈り込まれた庭木の姿を塀越しにながめて、何ともいえない寂寞感にとらわれた。悲しみの感情にとらわれたといったほうが正確かもしれない。
 隣家の主人がお元気で在宅であれば、このような無残な刈り方はされなかっただろうにと思う。庭木といえども命がある。ひとはそれを庭に取り込んだ以上、美しく刈り込み育て見守る務めがある。
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 私の家にも小さな庭が二つある。そこに生かされている樹々はこの家を建てたひとが庭師から買い求め植えたものだ。それ以外にもここに憩う鳥たちが種を持ち込んで生えたものものもある。大きな松が二本ある。そのうちの一本について以前この庭の手入れをしていた老庭師は、樹齢は300年ほどでしょうと推定していた。この家を建てたひとが庭師の畑に生えていた樹齢200年あまりのこの樹を買い求めたのであろう。背の高さは2階建てにも相当し、幹も一抱えはあるだろうか。あれから20年ほど経過したから、いまは320歳ということになるだろうか。
 この家の住人が三世代にわたって慈しみ、維持してきた数本の庭木の命もあと10数年であろうか。私ども夫婦の死とともにおそらくは人手に渡り、更地にするために無残にも切り倒されるに違いない。無人となった隣家の庭木の無残
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な刈り込みに悲しみを覚えたのも、わが家の樹々に迫る死への姿を見せつけられた気がしたからだった。このあばらやに住み続けることにこだわるのも、樹々の命とともに生きながらえたいと思っているからだ。
 不精者の私は庭の草むしりさえしたことがない。ただ年に一度植木屋さんにきれいにしてもらい、樹々の散髪をしてもらう。樹々は若返り美しくなる。その姿を見て安堵する。京都御苑の松が松食い虫に食い荒らされ次々と切り倒されたことがあった。わが家の庭にも及びはしないかと不安になった。幸いにも、その時代にもこの樹々は生き延び、まだ元気で生きている。その様を見て私もまだまだ彼らには負けられないと思うのだ。(2013.9.29)

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