「汽車通学」略して「汽車通」

バレン10002.JPG 新聞の書評欄で矢野直美『汽車通学』(メディアファクトリー、2010年2月刊)に目がとまった。半世紀以上も前の北海道での高等学校時代の記憶が甦り、懐かしさのあまりこの写真集を買い求めた。著者は北海道生まれ、札幌在住の写真家で、若者たちの通学の日常を北海道の四季の風景のなかに捉えて美しい。しかし、半世紀以上前の私の体験に照らせば美しすぎるように思われる。
 彼女によると「汽車通学」略して「汽車通」と言う表現は北海道独自のもので、今日でも鉄道通学をこのように表現するのは他府県に比べて蒸気機関車がおそくまで走っていたという事情も影響しているのではないかという。そうには違いないのだが、この言葉が当時の生徒たちの想い出として代々語り継がれてきたことがそれを今日までなお生きさせているのではないか。「汽車通」という略称に示されているように、この言葉は状況を説明することを目的としたものでなく、彼らの仲間としての呼称だったのではないか。
 クラスにはたくさんの汽車通の友達がいた。彼らの同じ汽車で通うことから生まれた連帯感、仲間意識を羨ましく思った。この写真集のように彼らの語らいは楽しく、後々までの友情も、場合によっては愛情も醸成されたに違いない。
 当時の根室本線は始発駅根室を出て花咲、西和田、落石、初田牛、別当賀、厚床と駅が続く。ここまでが当時の汽車通の領域であった。厚床まで1時間ほどかかったと思う。どういうわけか鉄道は太平洋側に施設されていた。厚床を除けば駅周辺に集落はなく、生徒たちは駅まで歩くか、当時はまだ利用されていた馬にひかせて線路を走る殖民軌道を利用した生徒も多かったと思う。殖民軌道は厚床でまだ動いていたし、別当賀にもあったように思う。汽車通たちの通学の本当の苦労は駅で汽車を降りたところから始まっていたのだ。
 汽車通と言えば厚床から通っていたO君を思いだす。10数年前に厚床駅に降り立ったとき、彼から自分の牧場に牛乳を飲みにこないかと誘いを受けた。牛乳はおいしかった。彼が厚床からの汽車通であることは知っていたが、開拓農民の家庭の出身ということはこの時にはじめて知った。勉強好きだった彼が進学を希望できなかったのはそのためでもあったのだろう。親たちと苦労して切り開いた牧場でようやく搾乳できるまでになったことをぼくに誇りたかったのだと思う。君は努力して学者の道に進んだが、自分もそれに負けないくらいのことをしたと伝えたかったのだろう。あろうことか彼は自分の牧場の牛にけられたことがもとで亡くなった。先日中標津空港から根室市内に向かうシャトルバスが厚床の集落をすぎて少しいった道路脇にO牧場の立派な案内板を発見した。息子たちが継いでいたのだ。彼の志が将来も引き継がれることを祈らずにはいられなかった。
 数年前の同窓会でSさんから聞いた話。彼女も西和田からの汽車通で、実家はオホーツク海側の温根沼の集落で商店を営んでいて、西和田まで毎日歩いたという。片道2キロぐらいはるだろか。今はオホーツク海側に道路が出来ており、路線バスも走っているが、当時は道路はなかった。だからこのあたりの集落から通う生徒の難儀は筆舌に尽くしがたいものだったろう。特に吹雪の日が多い冬場は命がけだったろう。その点を尋ねてみた。「冬の通学はどうしてられましたか」「スキーを使っていました」「それでも吹雪の日は大変だったでしょう」「上級生を先頭にロープで身体を結んではぐれないようにしました」「一面の真っ白な中で道によくも道に迷わなかったものですね」「電信柱を目印にしていました」。北海道の原野、とりわけこの半島のの吹雪は恐ろしい。その吹雪のなかを身体をお互いロープで結びあって進む姿を想像できる人はほとんどいないのではないか。
 私自身は汽車通ではない。しかし、O君といいSさんといい汽車通の彼らが当時示してくれた忍耐強さと学びへの強い意志は、今も怠惰な私を叱咤する。(2010.4.3)

 

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