電子情報・出版文化はこのままでよいのか(4)

 本題の電子書籍の問題にたち戻ることにしよう。電子書籍の場合もこれまでに述べた問題点は共通している。
 電子書籍の発信や取得も一見すると誰にでも無制約で平等の機会を提供しているように見える。電子書籍の書き手にとっては、紙による出版文化の制約を簡単に乗り越えて、誰でも自由に発信できるように見える。この形の出版文化にみる自由が新しい民主主義への芽生えであるなら、それを育てることが重要な課題になっているのではないか。
 ところがである。多くの書き手や書物好きはこの問題に無関心をよそおっている。なかには電子文化を敵対視する人さえいる。そのためにこの国では、少々極端な言い方をすいれば、電子文化は若者たちのお遊びの文化であるかのように理解し軽視する傾向が強い。そういった無関心の状況のなかで、いまさまざまな次元で電子情報に関わる権力の統制と管理が公然と強化されている。この動きは全体主義的な国家に限定されない。世界の各地で告発や抵抗の動きは強まっているのに、この国では抵抗の動きはどういうわけか鈍い。
 政府権力の管理の下に多国籍独占企業にその操作が付与されたかのように進む文化構造の行き着く先は、何の抵抗にも遭わずに進むとすれば、はっきりと見えている。すでにさまざまな形でその芽生えが見え始めている。いびつな構造を脱して、憲法的権利に依拠した文化に発展させるにはどうしたらよいのか。真剣に考え議論すべき時ではないか。それはたんなる出版文化のあり方をめぐる問題を超えて、社会構造のあり方に関わる重要な問題ではないか。簡単に図式化していえば、デジタル化のもとで飼い慣らされた人間像を基礎に全体主義に突き進む道と多様な個性を尊重する民主義的発展の道のどちらかをとるのかという課題として突きつけられているのではないか。
 この国の紙による出版文化を観察してみると、憲法第21条で「出版の自由」が保障されているにもかかわらず、実質的にはこの自由は制限されている。取次制度と大手出版社の癒着による流通過程の独占によって、中小出版社の販売活動は制約され、出版活動の東京一局集中は地方の出版文化を衰弱させている。ほんらいはもっと豊かに賑々しく展開されるはずの出版活動の活力は衰弱するばかりだ。しかも支配的な潮流に対して批判的な論調に対する自粛的な態度や差別も強まっている。いったいどこに「自由」があるというのか。閉塞状況は広まり強まるばかりではないか。
 電子出版市場の流通過程の独占はさらに極端で、しかもいびつである。書籍通販を独占する多国籍企業の支配力は強まっている。この国の紙の出版文化を独占してきた出版社は、紙の文化の独占は守られているし、今後も維持されるとこの動きにたかをくくっていた。電子情報・出版文化は急速に拡大し、電子書籍市場というあらたな市場が誕生している状況を軽視していたように思う。ところが、最近では慌てふためいて、取り組みの遅れを挽回しようと必死になっている。
 電子書籍出版はさまざまな格差の現実に直面する。購入する側について考えてみよう。PCやタブレット端末は高価で誰にでも入手出来るというものではないし、高齢者たちのほとんどはこれらを操作する技能に習熟していない。高価なPCとソフト、タブレットを購入できる人に限って利用できるシステムである。電子書籍に限って言うならば、基本的にはクレジットカードを使用できない人は購入できないことになる。電子情報に接近し利用できる階層間の格差が反映されている。紙の書籍であれば、自分で買わなくとも、図書館を利用すればこの格差や不平等はある程度までは解決できる。ところが、すぐ後で論じるように、そこにも大きな問題が隠されている。
 私の出版文化に対する立場は明快だ。紙による出版文化は発展させなければならないことはいうまでもない。その場合、その水準の向上がつねに目指されなければならず、憲法の規定に従って、出版と表現の自由の全面的保障を実現しなければならない。それと同時に、電子書籍がすでに定着している以上、これとの棲み分けと共存のあり方を模索しなければならない。紙による出版文化に対して保障される権利は電子書籍にも与えられなければなない。
 最後に私の提案をいくつか示しておきたい。
 出版独占のゆがんだ構造が出版文化の水準を低下させているとすれば、書き手と中小出版社が協力して質の高い書籍を出版するシステムを作るべきだと思う。その点で私は青空文庫というウェブサイトを高く評価する。青空文庫は著作権の期限が終わった書物を書物を電子書籍化して無料で提供するボランティア組織によって運営されている。電子書籍を食わず嫌いで敬遠する知識水準が高いと自負する人々に是非とも一度覗いてもらいたいものだ。古典的な作品を無料で提供できる、ここに電子書籍の大きな可能性を感じるのだ。
 岩波文庫電子書籍版と比較してみよう。夏目漱石の「我が輩は猫である」は岩波では693円、青空文庫では無料で入手できる。福沢諭吉の「学問のすすめ」も693円、青空文庫で読めばただである。紙の出版の独占を維持したい岩波書店と版権が切れた古典を誰でも読める形で提供したいという青空文庫の姿勢がこの価格差に示されている。どちらが正しいかは論じるまでもない。それだけではない。電子書籍の価格の決め方にも問題がある。紙や印刷、製本のコストがかからないだけでなく、取次と小売店に配分される利益の分も価格から差し引かれなければならないはずだ。ところが電子書籍の価格はその出版社が出している紙の本の売り上げを損なわない水準で決定されているようだ。そのために、このような不可思議で珍妙な現象が生まれることになる。
 文学といわず社会科学や人文科学の古典も電子化され、買いやすい価格で提供されなければならないと思う。私はアマゾンのアメリカ・ネットで英語の電子書籍で買っているが、その価格はというと、アダム・スミスの『国富論』は100円、J.S.ミルの『経済学原理』はA.マーシャルの『経済学原理』との合冊本で200円、J.M.ケインズの一般理論も100円といった具合に、ただ同然の水準である。このような価格で古典を購入できる英語圏の学生たちは幸運であり、このような恩恵に浴することのできないこの国の学生たちは不運である。青空文庫にならい、心ある社会科学者が結集して社会科学の古典の翻訳と電子化を是非とも提唱してほしいものだ。
 最近、公共図書館が電子書籍貸出を始めるという。これも実に奇妙な現象といわざるを得ない。公共図書館の頂点にある国立国会図書館は電子書籍はおろかブログやウェブサイトの収集について明確な方針を打ち出せていないというのに、地方の図書館が貸出しを始めるということ自体が奇妙ではないか。図書館利用者の減少と若者の読書離れを食い止めたいという狙いは理解できない訳ではない。しかし現状では、特定の国内企業が提供する端末を購入して貸出すという形をとらざるを得ないのではないか。端末それ自体がそれらの企業から提供されるのかもしれない。書籍も当然のことながらそれらの企業が提供するものになる。将来の電子書籍市場の拡大を見越した国内企業の戦略に組み込まれるだけのことではないか。
 アメリカの議会図書館、ドイツの国立図書館のホームページを覗いてみると、電子化に対応した収集が始まっているというのに、国会図書館のいわゆるデジタル図書館は紙の蔵書の劣化対策としてコピーして提供しているにすぎない。電子書籍を紙の書籍と同等の「書籍」と認定し、収集を開始すべきではないか。図書館の側が本格的に収集を始めない限り、電子書籍の水準は上がらない。それに引きずられて紙の出版文化の水準も低下するだろう。
 もう一つ、電子書籍を考える重要な問題点を指摘しておきたい。地球的な規模でみれば、紙による出版はいくつかの先進国に集中している。この地球上の多くの国は出版社もなく、当然書籍もない状態にある。教育に必要な教科書も準備できない国も多い。電子書籍はこの格差を克服する手段となり得るかもしれない。端末やコンピュータが安価に提供されたうえでの話ではあるが。
 紙による出版文化にはエコロジー的限界がある。すべての国と地域が先進国並みの出版を実現を求めたとき、そのために必要なパルプを提供できる森林など北半球にはない。限られた資源を分かち合うためには、表現方法の多様化を追求する以外にないのである。
 私が電子書籍出版にささやかな一歩を踏み出したのは、以上のような問題の議論をはじめたいためでもある。私がいまブログやウェブサイトで書いているもの、さらには電子書籍化したものものなど、後世に残らなくても結構、文章もファイルも、いうなら学生時代に大学構内で、争議中の工場の門前で撒いたアジビラのようなものだ。あのころのビラの文章は稚拙で、ガリ版で書いた文字もとても読むに堪えない水準だったが、それは今この年齢になっても水準は基本的には変わらない。ただ一人でもよい、読んでくれたら良いと願っている。しかし私個人に関わる問題にとどまらせてはならないのだ。電子情報による文化の成果はこのままの水準と状況では後世に残らない。紙の出版文化もそれに対応して劣化する、それを食い止めなければならない。(2013.10.12)

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