「時代の塵」でも美しく輝くーテオ・アンゲロプロス監督『エレニの帰郷』によせてー

  もうだいぶ前のことになるが、ギリシャ出身の映画監督テオ・アンゲロプロスの遺作『エレニの帰郷』が公開された。2004年に公開された『エレニの旅』の衝撃が大きかっただけに、ギリシャやギリシャ人を素材にして現代をどのように感動的に切り取ってくれるか、期待に胸躍らせて映画館に出かけた。先日撮影中に自動車事故で逝ったアンゲロプロスは私と同世代であり、國は違うが同じ時代的体験の中で生き、同じ挫折感の中で生きたであろうこの作家の感性にはこれまで共鳴するものが多かった。
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 残念ながら、前作の継承として観ようとした私の期待は裏切られた。『エレニの帰郷』というタイトルから推測して、主役たちが現代ギリシャに帰るとばかり思っていた。舞台はもっぱら壁崩壊時のベルリンで、話される言語は英語とドイツ語ばかり。エレニは故郷に帰ることなく、ベルリンで逝ってしまった。「帰郷」は映画を配給する会社の戦略上つけられた題で、映画を見てはじめて原題が「時代の塵」(dust of time)であることを知った。いったいこの映画のテーマは何か、この原題に込めた彼の制作意図は何だったのか、映画を見終わって数ヶ月たってもこの疑問に答えを見いだせないまま、この文章は未完のままPCのデータの中に放置されたままであった。考えた以上、書き留めておかねばならない。書き続けようと思い立ったのは、先日来考えていた「啓蒙学者の呻き」の原稿のテーマと何となく共通する感性をこの映画のテーマに感じ取れたからであった。この映画の上映はとっくに終わっているのだが、DVDで販売されているはずだし、とにかく書いた以上公表することにした。
 スターリン体制下の矯正収容所、スターリンの死とフルシチョフによるスターリン批判、そのてベルリンの壁崩壊へと続く時代の急流は、この映画の主人公三人の運命を翻弄し続けた。三人はベルリンの壁が崩壊するまさにその時にベルリンで再会する。
 エレニに対する二人の男たちの愛は今の時代には到底許されないものであろう。それはこの時代が作り出した奇妙な愛の形であった。ユダヤ系ドイツ人、おそらくは共産主義者あったと思われるヤコブのシュプレー川への入水自殺する。その入水の姿は無機質の物体が倒れるかのような形で表現されていた。エレニに対する彼のひたむきな愛情は同時に時代の姿であった。ベルリンの壁が崩壊するまさにその渦中で、彼は自分を支えていた思想の崩壊を自覚しただけでなく、その時代の中で育まれた愛をも失ったのである。
 映画の終わりに近く、彼はエレニを中心にしてベルリンを散策している時に呻くようにつぶやく。「我々は歴史にはき出された。時代の塵みたいなものだ」と。映画のなかで表現される彼らは決して「塵」ではない。あのような時代が生み出した「塵」でも美しく意味あるものだ、そのことを歌いあげることにこの映画の主題があったのではないかと今ようやく思うようになった。
 私が今生きている時代にもはや適合しなくなったとしても、あの時代があったからこそ現代に対する理解も深まっいるのではないか。かりに「塵」であったとしても、その存在自体は見方を変えれば輝いてみえる。そのように考えないと、あの時代は、またあの時代に生きたすべてが抹殺、無視されてしまう。彼らの存在の意義はこれからの歴史が証明してくれるはずだ。その意味をなんとしても残していく責任は、その時代をいくらかでも垣間見た私の世代の責任ではないか。
  この文章を書きながら、私は戦前の左翼運動に携わった人たちのことを考えている。スターリン体制、そしてこの國の治安維持法の下での抑圧によって肉体的に滅び去った人びとの生き様は、歴史の証としてだけではなく、今に続く人間の営みの重な部分として評価され続けられなければならない思う。左翼運動によって、ある人は英雄として、ある人は裏切り者や脱落者としてレッテルをはられ、都合よく処理されていくことも問題ではないか。
 同時代人としてアンゲロプロスには、私と共有できる壁崩壊後の時代認識を映像化して見せてほしかった。この作品のテーマは未完のまま残された。エレニはそれぞれの時代を映すシンボルであった。エレニのベルリンでの死によって現代を映し止めるべきシンボルは孫娘のエレニに引き継がれた。新しいエレニを介した時代批判の作品を見ることができなくなったのは残念としかいいようがない。
IMG_0002.jpg 最後に彼のワルツ好みへの共感も書き記しておかねばならない。彼の作品に使われるE・カラインドルー作曲になるワルツはどれも美しい。この作品のそれもセンチメンタルな情緒を醸しだして心地よい陶酔感を私に与えてくれた。(2014.4.25)

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