「チベットの仏教世界ーもうひとつの大谷探検隊ー」を見る ー二人の若い学問僧の生涯に見えた疑問ー

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  2014年5月30日、龍大ミュージアムで開催されている「チベットの仏教世界ーもうひとつの大谷探検隊ー」を見た。チベットの仏教美術に特に関心があった訳ではない。副題に惹かれて出かけたのだった。
 二人の僧侶、多田等観と青木文教が、明治の終わりに20才前後という若さでチベットに留学したという事件は、年代記に書き込めんでしまえばただこれだけのことになるのだが、留学史という範疇が許されるとすれば、この國の近代の歴史に特筆されるべき出来事だったのではないかと思う。西本願寺の法主大谷光瑞の命とはいえ、難解な言語と異文化の障壁を克服して、あの國の学位を得て帰国した彼らの事業は偉業と呼ぶにふさわしい。それに比べると私どものヨーロッパ留学の体験など児戯に等しいものだ。彼らの事績についてもっと詳しく知りたいと思った。
 その点ではこの展示は私の好奇心を刺激してくれたものの、内容については大きな疑問が残った。法主大谷光瑞はいったいどのようなアジア認識をもって何を実現するために彼らを送り出したのだろうか、その点がさっぱりわからないのだ。遠戚関係によって彼自身も連なったこの國の支配層のアジア認識がどのようなもので、彼はその流れにどのようにつらなっていたのであろうか。
  西本願寺が戦争に協力し、植民地支配と共同歩調をとっていくその後に歩みの原点はここにあるのではないだろうか。この二人の学問僧がその得た学識によって戦争協力を強いられていくのも、その流れからすれば当然の成り行きではあった。
  もう一つ、彼らの研究成果は西本願寺に残されることはなく、東北帝国大学、東京帝国大学に取り込まれていった。それらの大学で彼らはその学識にふさわしい地位と処遇を与えられることはなかった。ようするにただの補助職しか与えられなかったのだ。とくに多田等観については、そのような印象を強く持つのである。勅任官である教授の権威に支えられた帝国大学の悪しき階層性の典型的な姿であったと思う。
 いま、グローバル資本主義の支配が強まる中で、大学教育も研究の担い手はますます中上流階層出身者のよって占められるようになり、権力の近くに立つことが、あるいは経済的強者の近くに立つことを当然のことととする流れが支配的になっている。天皇制によって権威づけられた戦前への回帰ではないとはいうものの、学問の自由がその表現通りに保障されることを夢想するものにとっては、学者の階層性の復活を危惧せざるを得ない。(2014.6.5)

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