「少年兵」に遭遇する−大津市歴史博物館の「戦争と大津」展での発見(1)ー

 毎年夏も8月頃になると各地で前の戦争に関する展覧会が開催される。メディアの特集も多くなる。今年は敗戦の年から数えて69年、来年は70年ということもあってか、いつもの年より企画が多いような感じがする。あと1,2年もすると体験者が急減する。昨今の政治情勢から見て、この種の企画もそのうち絶滅に近い状態に追い込まれるかもしれない。
 私自身も生あるうちに体験を記録し公表することが戦争を体験したものとしての責任ではないかと痛感するようになっている。先日アマゾンから「私の戦争シリーズ」の序章として『すり込まれている筈の風景』を刊行したのも、そのような決意があってのことであった。執筆のねらいは支配者の狂気によって呼び込まれた無謀な「本土決戦」の結果をそのほんの一部であっても書きとどめておくことである。市民が国内で被ったあの惨状を米軍の無差別爆撃のせいにするのは一面的だ。勝ち目もないのに国内に戦争を引き込んだ指導者の戦争責任こそ問われなければならないと思う。

 狂気の実態を私の国民学校(現在の小学校に相当)での体験の記憶をまとめながら書いてみたいと考えている。『すり込まれている筈の風景』では、その狂気を教育現場の「兵営化」と表現してみた。兵営を私は体験したことがないのに、そのように表現うるのにはいくつかの根拠がある。
 教育勅語や神武に始まる歴代天皇の系図を暗唱することが「修身」という教科の中心であった。意味を教えられず、ただよどみなく暗唱することが求められた。奉安殿への毎日の拝礼、朝礼の際の皇居遙拝、そして無数の儀式、これらを通じて徹底的に国体のなんたるかをたたき込まれた。国民学校とは国民(くにたみ)の学校のことで、つまり天皇を頂点とする国家に臣下として服属する民であることをたたき込む場であった。私はいまだに「国民」という表現を使うことを好まないのはそのころの体験のためでもあろうか。
 しかも、教育勅語はおろか、「帝国軍人に賜りたる勅語」や東条英機が起草した「戦陣訓」に至るまで教え込まれた。前者にある、「一つ軍人は忠節を本分とすべし」とか、後者にある「生きて虜囚の辱めを受けず」の1節も未だに私の記憶にすり込まれている。校内では軍隊式の敬礼が強要され、教師による体罰には何の制約もなかった。ビンタと称する平手打ちや足払いは普通で、四年生の子の頭をこぶだらけになるまで笞で殴り続けた教師もいた。児戯にも等しい軍事教練も導入され、体操の時間は軍隊式の整列、分列行進の訓練が中心だった。
 その仕上げが、「天皇陛下の赤子」として兵士になることの強要であった。学級担任は生徒に国民学校を卒業したら兵士になること、成績優秀な生徒は海軍予科練や陸軍幼年学校に志願することを求めた。わずか14歳でまだ十分な体力のない少年が兵士になるなど、現実的には起こりえない、ただの洗脳教育だったのではないかと考えていた。

 ところが、現実は違っていた。兵士不足は深刻であった。本土決戦に備えて前線から部隊を呼び戻すこともならず、赤紙を乱発して高齢の兵士をかき集めるのに加えて、学生の徴兵猶予を停止して兵士化する(いわゆる学徒動員)、少年たちを兵士に仕立て上げるという、国の将来を担う若者を消耗する禁じ手に手を染めざるを得なくなっていたのである。乗る飛行機もなく担ぐ銃も十分にないのにである。
 そのために、この時期に予科練も幼年学校も各地に開校され受け皿が整えられていった。どういうわけか、北海道には予科練も幼年学校も設立されなかった。かりに戦争がまだ続いて幼年学校に私が志願するとしても、津軽海峡を渡ってはるか彼方の仙台にまで出向かなければならなかったのである。このような現実味のないことを強要した教師たちの意図はどこにあったのだろうか。要するに自分の学級では志願者が何人いるかを競い合うこともあったのではないか。そうだとすれば教師たちの罪は重い。
 戦争が終わってしばらくして、私は幸運にも大学の入学試験に合格し、津軽海峡を渡って仙台で学んだ。教養課程の2年を過ごした場所はなんとかっての陸軍幼年学校の校舎であった。郊外の辺鄙な丘にたつ建物は急ごしらえでいかにもみすぼらしく、大学の雰囲気など感じさせてはくれなかった。市内にあった旧制第二高等学校も空襲で焼失したので、この校舎を引きついだのである。万が一にもそのような可能性はなかったと思うが、戦争あのままが続けば志願したかもしれない幼年学校の跡地で私は2年間学んだのである。

IMG_0002.jpg 最初のテーマに戻ろう。大津歴史博物館の展示で私ははじめて少年兵に遭遇したのである。その前で立ちすくんだ。この写真に写る少年は14才で中学を中退して大津少年飛行兵学校の志願し、入学する際の記念写真という。武運長久を祈る寄書の日章旗を肩からたすき掛けにし、ゲートルを巻いても顔かたちはまだ少年であった。それ以外には見えなかった。私はそこにひょっとしてあり得たかもしれない自分の姿を見ていた。博物館で買い求めたパンフレットの解説には、「少年兵へのあこがれ」という表題がつけられている(17ページ)。とんでもない、あこがれて志願したのではない。教育によって死ぬことを強制された結果なのだ。
 この写真の少年の後日譚がある。正確な日時は忘れたが、8月のある日のNHKニュースに、すでに80才を超えたこの人が登場していた。敗戦によって軍隊から解放されたが、死ななければならない自分が死ねなかったことに慚愧の念で故郷に帰ったという。おそらく徹底的に特攻死をたたき込まれたのであろう。少年が死を覚悟し、死ねなかったことを悔やむなどということを今の少年たちに話しても、とうてい理解されないだろう。愛国主義的教育が行き着く先を歴史から正しく学んでほしいものだ。この人は、無事に帰ったことを喜ぶ母の涙で救われたという。この母はこの写真には写っていない。「軍国の母」が泣いてはいけないと見送りに来なかったという。この人の母はあの時代には公然とはできなかった率直な人間的な心情表現ができた人だったのだろう。

IMG_0002.jpg 先日、神戸市にある「戦没した船と海員の資料館」を訪ねた。ここでも多くの少年の生命が奪われていたことを初めて知った。前の戦争を語るとき、海上で戦没した人びとに言及されることはあまりない。戦没した船舶の隻数は、政府の公表した統計によると、機帆船や漁船も含めて7240隻という(注1)。そのほとんどは軍が徴用したいわゆる「徴用船」であったと推定される。この数字は根拠が曖昧で、特に機帆船や漁船となると実際にはもっと多かったと思われる。犠牲者は民間人、軍人、捕虜も含めて23万1600人、海員は6万600人であった(注2)。
 私を驚かせたのは、海員戦没者に占める青少年海員の比重の高さである。20才未満の海員が31.43パーセントにもなっている。国民学校高等科2年を終えて海員学校、海員養成所で訓練を受けて海員になる。ところが、1944年(昭和19年)になると就業年限が短縮され、14才という若さの少年が戦没することもあったという。14才戦没者は987人、1.63パーセントを占めている。

 あの戦争はそれ以外でも多くの若者と少年少女を巻き込み、多くの死を作りだした。旧制中学、高等女学校。国民学校高等科の生徒たちの勤労動員という強制的な児童労働では多くの犠牲があった。勤労動員は軍需工場、基地建設に向けられたから、空襲は容赦なく多くの死をもたらした。そのもっとも凄惨な姿は広島爆心地であろう。工場は8時に動きはじめていたから、原爆は瞬時に出勤したばかりの彼らの生命を奪ったのであった。原爆資料館で爆心地の軍需工場でのこの悲劇の展示の前に立ち、私は数年の違いが生み出した犠牲の姿に頭をたれる。
 14才から25才の女性を兵士並みに動員して使役した女子挺身隊(注3)や満蒙開拓少年義勇軍の犠牲者数も明らかにされなければならない。ここまで子どもたちをたぶらかし、国策への参加を強制した指導者たちは後どのように責任をとったのだろうか。

 あの戦争が子どもたちにまで死を強制したことはまさに犯罪行為であった。それだけでもあの戦争の最終局面を号令したものたちの責任を見逃すわけにはいかないのだ。戦後に締結された国連子どもの権利条約はその冒頭の第1条で、子どもとは原則として18歳才以下とするとしている。この国連の原則が戦前、戦中の時代にも当てはまるかどうかについては、時代間のさまざまな違いを考慮しなければならないことは承知している。そうではっても、あの戦争は子どもの生命をもてあそんだことで道徳的に断罪されなければならない(続く)。(2014.9.30)

 (注1)この数字は戦後、経済安定本部がまとめた『太平洋戦争における我国の被害総合報告書』によるもので、これ以外にも、艀船6371隻、各種工事用船307隻、その他1240隻が失われたとされる(中村隆一郎『常民の戦争と海ー【聞書】徴用された小型木造船ー』東方出版、1993年8月、211ページ)。
 (注2)海員戦没者の所属別構成をみると、戦没者総数60331人のうち、陸軍徴用船での戦没者が27092人、海軍徴用船が17363人、陸軍配当船・海軍指定船が15043人、その他が833人となっている。この数字は戦没船員の碑建立会のまとめた数字なので、実際にはもっと多かったと思われる。『戦没船写真集ー戦没した船と海員の資料館ー』全日本海員組合、2001年8月による。
 (注3)勤労動員が地元での労働を強制したのに対し、女子挺身隊は軍属として、兵士に準ずるものとして使役されたようだ。北千島攻防の悲劇を描いた浅田次郎の傑作『終わらざる夏』全2冊(集英社、2010年7月)は、占守島の日露漁業缶詰工場に数百名の女子挺身隊員が働いていた。函館高等女学校出身の少女たちであったという。小説ではあるが、資料に基づいていると思われるので、信頼できる記述だと思う。彼女たちは戦闘に巻き込まれることなく無事函館に帰りつけたであろうか。

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