「もったいない」という言葉ー習俗が生きている社会こそ健全(2)ー

 さまざまな習俗によって織り上げられている社会こそ健全なのだ。このことに気づいたのは地球環境問題を真剣に考え始めた頃だ。自然や生物の生命に対する畏敬の念の欠けた、地球の資源に限りがあることに思いをいたさない議論は傾聴に値しない。地球上の生きとし生けるものすべてにふりかかる危機を少数者である人類が効率優先の思想ばかりをふりかざしていては管理できるはずがない。
 ノーベル平和賞受賞者であるケニアの地球環境保護活動家ワンガリー・マータイ氏が、数年前に「もったいない」という日本語を再評価し始めた。日本人がほとんど忘れかけていた言葉が国際世論のキーワードとして復活したのである。ノーベル賞受賞者が利用してくれたと言うことでメディアは喜び、広告宣伝でもコピーとして利用されたが、いつの間にか消えてしまったようだ。
 この消滅はある意味では当然ともいえる。消費は美徳とされ、浪費を奨励されて今さら節約とは、生活様式の切り替えは出来ない相談だったろう。それ以上に「もったいない」と言う言葉の意味を日本人のほとんどは忘れてしまったのではないのか。小泉純一郎は「もったいない」とは作った人への感謝の表明だと説明したという。しかし市民のほとんど、とりわけ大都市圏の住民は購入する商品の産地や使用されている原料の産出地、流通経路には関心がない。関心は価格となにがしかの安全性に限られる。知らぬ相手に感謝するほどの自覚を巨大都市の住民たちが持ち合わせているとは考えられない。ましてそのことによって節約を自覚することなどあり得ない。
 「もったいない」とは、私たちに内在する自然観や仏教信仰が作り上げた習俗の表現であったのではないか。私は地球環境問題に関心を抱き始めてから、私は時々戦前の子どもの頃の家族の食生活を思い出す。毎朝食事の目に御華足(おけそく)にご飯を盛って神棚と仏壇に供えるのが父の仕事であった。食事はあまさず食べることようにしつけられ。お米は「穀様」であり神宿るものとして一粒も残さず食べ。魚を食するときもあますところなく調理したものだった。長い間私は「もったいない」としてあまさず食するのは貧しさによるものだと決めつけていた。とりわけご飯を一粒も残さず食べる態度は戦前、戦中に生きた人びとのみみっちい生活態度とあざけりの対象にもなっていただけに、そのような気分に追い込まれていたのかもしれない。
 いま考えてみると、この態度は他の生命を頂く際の当然の気持だったのではないか。私の家は東本願寺の門徒であっただけに生き物たちを殺傷して頂くことへの感謝は欠かせなかった。「頂きます」は当然の表現であった。その頃「始末する」(節約するの意味)ことは美徳とされた。この言葉もいまでは聞かれなくなった。
 私が少年時代に家族の中で体験した習俗はほぼ消滅した。そのルネサンスは不可能であろう。「もったいない」と言う表現を日本人の美徳として維持し発展させるためには、地球の限界を認識し、それを人間だけでなくあらゆる生物種の将来世代まで持続させることを理念的に獲得することだ。「持続可能性」の理念を教育によって獲得し補強することだ。「エコ」という得体の知れない和製カタカナ語に踊らされて「省エネ製品」を買わされているだけでは問題は解決しない。(2010.4.15)

コメント(1)

ブログ開設のお知らせいただきましてありがとうございます。
日頃ご無沙汰ばかりしているのに、ハガキをいただき感謝しております。
さっそく、先生のページにアクセスしました。
最近の佐々木先生の様子がよくわかります。
昨春、旅先で知り合ったお年寄りの話ですが、「ちっとも息子が寄りつかないので、ブログを始めると小まめに連絡が来るようになった」と言っていました。
私はその時、「へ〜。そういうものなんですか」と返事をしたことを思い出しました。
この頃、夕食に何を食べたかすら思い出せないのに、何かのきっかけで昔の記憶がよみがえったりします。先生のブログに共感しております。
これからも先生のブログを楽しみに、読ませていただきます。
また、先生がお元気なうちに会いに行かねばとも思うのですが。
アッ失礼しました。
かく言う私も56歳。いつ人生の終点を迎えるかもしれませんので。

(高田俊秀)

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.01

最近のコメント