戦争画家藤田嗣治の錯誤ー知識人の戦争責任ー

  少し古い話になって恐縮だが、先月初めに兵庫県立美術館で「生誕130年記念藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画ー」を見た。藤田の絵を好まない私が出かけた理由はただ一つ、彼の描いた戦争画を見たかったからだ。藤田を嫌いな理由の一つにおそらく彼の描いた戦争画がある。
 前の戦争では、あらゆる分野の知識人がさまざまな形でさまざまな程度で戦争の正当化と戦意高揚に協力した。戦後になって協力者たちの多くはやむを得なかったと言い訳をして生き続けた。積極的に協力した者たちでも追放されたり、自ら恥じて退いた者もあまりいなかったと思う。少なくとも学問や大学の世界ではそうだった。私が大学生だった頃には、教授たちの戦争責任を問うことは、過去を詮索しすぎという雰囲気が醸成されていて曖昧にされていた。それよりも時代の風潮は「アカ攻撃」が支配する時代に変わっていた。
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 藤田嗣治は戦争画を描いたことで非難されながら、彼は最後まで責任を認めようとしなかった。このことについては明確に弁明も謝罪もせず逝ってしまったのではないだろうか。そのことを絵を見て考えてみたいと思った。
 作品は時の流れに対応して展示されていた。彼の絵の特徴である乳白色の色使いの作品が続くなか、突然それまでの絵に似つかわしくない暗い作品が現れ、展示の流れが中断される。美しい絵を期待してきた人たちを驚かせたに違いない。3点展示されていたが、「アッツ島
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玉砕」は193.5×259.5、「ソロモン海峡における米兵の末路は」は193×258.5、「サイパン島同胞臣節を全うす」は141×362、どれも超大作である。私の世代が見ると、どの絵も戦争画以外の何物でもなのだが、描かれた歴史的事実を知らない若い人びとがこれらの絵の前に立ってどのように感じたかを聞いてみったかった。
 「ソロモン海峡・・」は純粋に絵として見ると駄作である。「サイパン島・・」は初めて知った。サイパン島玉砕の際の日本人島民の集団自決を描いたもので、崖の上に追い詰められた島民の姿が神々しいばかりに描かれ、すでに多くの人が崖を飛び降りて自殺している様子が背景に描き込まれている。
 絵の前に立って気がついたことがある。3枚とも、ウジェーヌ・ドラクロアの模倣と言われても仕方ないくらい彼に深く学んでいる。「サイパン島・・」の構図も人物配置もルーブル美術館にある「キオス島の虐殺」に実によく似ている。この絵に学んだことは明らかだ。「アッツ島・・」の死体の描写などはドラクロアが師とと仰いだジェリコーの表現でまとめられている。見ようによってはあの有名な「民衆を導く自由の女神」の死体描写に似てなくもない。このように
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見ると、藤田はドラクロアに学んで歴史画を描いたつもりで、戦争画を書いたとは考えていなかったのではないか。歴史観を表現したものと考えていたのではないか。だから戦後の批判に対して、心中ではここに自己弁護の根拠があったのだろう。自分の作品はドラクロアに匹敵するものだと。
 そうであったとしても、藤田の自己弁護は通
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用しない。ドラクロアの歴史画はフランス革命の理念を表現したのに対し、藤田はそれに逆行する国体擁護の思想に舞い上がっていたのだ。舞い上がってしまった彼には自身の見地をいくらかでも相対化してみる余地などなかったのだろう。
  アッツ島もサイパン島も、彼は現場に立つことはかなわず、軍が提供する情報にもとづいて構想したものだ。「玉砕」とは補給できず、「生きて虜囚の辱めを受けず」とした「戦陣訓」によって金縛りに遭って自滅したことを正当化する装置であった。それは軍の首脳の失敗を隠蔽する以外の何物でもなかった。「臣節を全うす」などと頌える島民の自決も、島民を「玉砕」の巻き添えにする論拠はどこにあったのか。サイパン島の島民はほとんどが沖縄県からの移住者であった。熱帯の気候に適応できるとして移住させられたのである。サイパンはその意味でも悲劇であった。彼の絵には沖縄の雰囲気は微塵も感じられない。サイパンの「玉砕」は後の沖縄戦の原型ともなった。軍による島民への自殺の強要はさらに醜悪なものになっていったのである。戦後になって、彼はこれらの事実に気がつき、画業で犯した「罪」を悔いただろうか。
 今再び戦争の時代が到来している。周りを見渡してみると、歴史を歪曲する「伝統」なるものに知識と芸術を生業とする者たちが群がり初め、舞い上がっている。過去に学び、彼らの誤りに注目しなければならないと思う。(2016.10.26)

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