「死の島」

 漆黒の闇の中から小柄な父の姿がスポットライトを浴びたかのように浮かび上がっていた。父はお気に入りのグレーのハンチングをかぶり、いつものカーキ色の仕事着にゴム長靴という姿でウニ漁に使う一人で操作する舟に似た小さい舟の上に立っていた。「建や、乗れ」と私を手招きしたが、私はいぶかり、乗るのをためらった。「いったいどこに行くんだ」と聞くと、「国後(クナシリ)だ」と答えが返って来た。木の葉のようにちっぽけな舟で波の荒い海峡を渡れる筈がない、いぶかったところで我に返った。夢を見ていたのだ。おそらくその時、私の心臓の不整脈は最高潮に達していたに違いない。父が冥府から私を呼んでいたのだ。「国後」はこの妄想にも近い夢の中では、明らかに「死の島」であった。
 よく考えてみれば、父は船大工のくせにまったくの「金槌」で泳げなかったし、舟を櫓で操ることもできなかったのではないか。私が父の誘いにのらなかったのはその意味で当然だった。この夢はその後も何度も見たような気がする。いやそうではなくて、一度きりの夢で、その後その記憶を何度も反芻していただけのことだったのかも知れない。
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 私は国後島に出かけたことはない。根室海峡をへだててすぐにあるある筈のこの島の姿もめったに見ることがなかった。晴れ上がった冬の日に市街地から正面にくっきりと浮かび上がる山並みは知床連山で、市街地を出て半島をすこし東に移動しなければ国後はみえなかった。一度だけ機会があったような気がする。茶碗を伏せたような形の活火山、爺爺岳(ちゃちゃだけ)の山塊が記憶に残る。なぜ国後島への手招きだっただろうか。
 思うにこの夢と妄想には、かってバーゼルの美術館で対面して虜になったアルノルト・ベックリンの「死の島」の残像があるように思われるのだ。当時この絵を見たときの印象では、私は表題にある「死」をそのなかに感じ取ることはなかった。それよりも、あれほどに「静寂」や「静謐」を意識させる絵はないと思ったものだった。画家が生きた19世紀末には、資本主義的な関係が支配的になり、領土拡張をめぐって帝国主戦争の危機が激しくなるにつれて、騒々しい時代に移っていた。それは現代も変わらない。「静寂」な「死」への道など現実から逃避したい芸術家や知識人の欲求の反映以外の何物でもなかった。そうはいいながらも、私自身も、妙にこの絵のしめす「静寂」に惹かれたのであった。

 国後の島影を私のまちから見てみたいと考えるようになっていた。知床半島の付け根にあたる羅臼町や野付半島から見える国後よりも大きく近くに見えるはずであった。市街地を出て東に車を走らせると(私がいた頃にはこんな道路はなかった)、ノッカマップという小さな岬と入り江が見えてくる。ここから国後を見たいと何度か出かけたが、晴れた日なのに姿を見せてくれなかった。
 ノッカマップ、この地名はこの国の近世史において例を見ない異民族虐殺の事件の現場として記憶されなければならない。1789年(寛政元年)に起きたアイヌ民族最後の抵抗となったクナシリ・メナシ蜂起終焉の地である。松前藩から場所を請け負った日本人商人飛騨屋の過酷な搾取と民族の尊厳のあまりの蹂躙に抗してクナシリとメナシ(北海道東部羅臼から標津のあたり)のアイヌが呼応して蜂起した。アイヌ民族の歴史で最後の蜂起であった。
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 鎮圧され、首謀者はノッカマップに集められ37人が処刑された。彼らの首は塩漬けにして松前に送られ、城下の刑場にさらされた。37人の亡骸はこの岬のどこかに埋められている。ここに住んだアイヌたちはおそらく高田屋や藤野家が経営するネムロ場所で使役されるのに移住させられたに違いない。埋葬場所の記憶は完全に失われたのである。
 いまこの場所に立つと、風の音が聞こえるだけ、「静寂」そのものである。しかし、クナシリになおアイヌが住んでいるのなら、北海道はまさしく「死の島」、自然の「静寂」とは関わりなく多くの無残な死がざわめく島なのだ。その逆も言える。クナシリも死がざわめく島なのだ。表層に顕れる「静寂」は虚構でしかない。

 50代おわり頃の父にとりついて死に至らしめた病巣が、80歳過ぎたこの私の体内にも発見された。早速の入院となり、治療が今も続いている。入院中の夢枕には父は登場しなかった。まだ生きよということなのだろう。それよりも「静寂」よりも地に潜む「ざわめき」を感じ取りたい私は、まだ父の招きを受けるわけには行かないのだ。(2017.2.18)

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