東北帝国大學法文学部経済学科講師立野保男の逮捕ー治安維持法と大学の責任(3)ー

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 立野保男について私の知っていることは少ない。お会いしたこともないし、著書や訳書は買い求めてはいるものの精読はしていない。紹介できる立場にはほど遠いのだ。それなのに書いておきたいと思い立ったのには理由がある。治安維持法によって検挙され獄につながれた学者、学生は多数にのぼる。しかし、三木清や戸坂潤のように不幸にも獄死した人びと、戦後解放されて大学に復帰し学内外で賞賛された人びとに比べて「無名の」犠牲者たちに注目が集まることがなかったのではないか。
 立野保男もその一人ではなかったか。マックス・ウェーバーの研究者なら、戦前の仕事でありながらなお岩波文庫に収録されているウェーバーの訳書によって彼の名を記憶している人もあるだろうが、彼の母校の大阪市立大学、彼が在職していた東北大学でもその名を記憶している人はほとんどいないだろう。「無名」に終わらせてはならないと思う。
 私が彼のことを書いておきたいと思ったのにはもう一つの理由がある。東北大学年代記の記述の杜撰さである。『東北大学五十年史』は次のように書いている。原文のままその箇所を引用しよう。「この間また法文学部には二つの事件があった。経済学科の服部英太郎教授の退官と、立野保講師の検挙である。」(上巻、1020ページ)名前が間違っている。しかもそのすぐ2行後には「立野保男講師が検挙され」と正確に印刷されているにもかかわらずである。一番の誤記は、次の箇所だ。「東北大学法文学部教授会は、昭和12年以来その学問思想の故に追放されていた宇野弘蔵助教授、服部英太郎教授、辰野保雄助教授の復職を決議した。」(同上、468ページ)一体これはどうしたことか。名前どころか、職位も違うのだ。大学の年代記にはあってはならないことではないか。この書物が刊行された1960年には立野保男は存命だった(1)。大学は本人に対しその非礼を謝罪したのだろうか。
 2003年から2010年にかけて刊行された『東北大学百年史』ではさすがにこのような誤りを繰り返してはいない。しかし、腑に落ちないのは、立野保男はなぜ逮捕されたのかについて、東北大学の年代記には明確に書き込まれていないことだ。その第一巻(通史)では、服部英太郎教授の逮捕については6行にわたる記述があるのに、「法文学部経済科では、会計学の立野保男講師も検挙され」と検挙の事実が確認されているだけなのだ(2)。
 しかし、第四巻(部局史一)では立野保男講師が18年5月に検挙され8月に解職されたことについて、「立野講師はその前年の17年に大阪商科大学専門部から移ったばかりであるが、いわゆる大阪商大事件に関連して検挙されたものであり、その後大阪府警に連行されたのち、大阪で拘禁を続けられた(上林貞治郎『大阪商大事件の真相』、1986)(注3)。
 大学年代記の記述らしく表現されているのだが、治安維持法の犠牲者の姿をいくらかでもとらえて提供したいという私の立場から見れば、これではどうにもならない。というのも、上林貞治郎の著作や『特高月報』の記事を読んでも、立野逮捕の根拠が納得できるものではないからだ。そこで私なりの推理を述べてみたいと思う。
 上林の著書に「友人のT」として登場するのは、立野のことだと思う。逮捕と拘禁によって発症し戦後もその病と苦闘しなければならなかった立野とその家族に配慮して実名を伏せたのだろう。上林のいうには、立野は本来の商大事件、商大教員と学生たちがつくった組織活動とはまったく関係がなく、おそらくその周辺で組織された名和統一を中心にしたグループ(4)だったのではないか、それに商大に勤務していた頃の啓蒙活動も追加されたのではないかと推定する(5)。
 しかし、立野の逮捕と大阪商大事件の筋書を伝える1942年3月発行の『特高月報』(昭和17年3月)をみても、彼の罪状は明らかにはならない(6)。「立野講師退職反対運動」なるものが学生たちの間で組織され、それが大阪商大事件の出発点になったとされる。立野は当時商大予科随一の左翼教師と評価されていて学生に人気があったという。大学上層部からの彼の講義態度を理由にした退職圧力、東北帝国大學への転勤の動きに学生たちはマルクス主義の擁護の立場から抵抗したのだという(7)。立野について書かれているのはそれだけだ。
 要するに、立野は上林等のように研究会を組織したり抵抗組織を作ったりという人ではなかった。そのような動きを特高は把握していない。彼は講義では会計学を論じるよりもマルクスやウェーバーについての学識を披瀝することを好んだに違いない。学生たちにとってもそれは知的好奇心と向上心を刺戟する貴重な時間であったに違いない。そのような仕事ぶりは大学上層部にうとまれることにはなっても、仙台で「不意打ちに」逮捕される口実になるとは、立野は考えだにしなかったのだろう。
 それだけに、逮捕と取調、長期にわたる拘禁は彼の神経を蝕み狂わせることになったのだと思う。その過程を上林は次のように書いている。

 「彼には、二歳の長女と生まれたばかりの次女があり、不意打ちの検挙で大阪に連行されてきた。一年間ほど阿倍野署の留置場に入れられ、44年5月頃に拘置所に来た。
 その時彼はすでに元気なく、ノイローゼ気味であった。
 熱い7月の夜、彼は気が狂い、夜中に剣道の掛け声をかけていたが、気持ちを落ちつけるためであろうか。暑い夏の真夜中の拘置所で、友人の狂った声が聞こえてきた。
 暗然とした気持ちであった。」(8)
 
 大阪商大事件の逮捕者と同じように、立野保男も告訴されず未決のまま拘置された。逮捕の根拠は権力の側から示されたものは何もない。特高の書いた筋書きを信用するかそこから推測するしかないのだ。彼の逮捕の根拠は運動に主体的に積極的に関与したことではなかった。啓蒙者といえども見せしめに逮捕したか、それとも逮捕によって新しい逮捕者を見つけようとする策謀であったか、いずれにしても彼は治安維持法に弾圧の犠牲者であった。しかも精神を病むことによって彼への弾圧は凄惨な結果をもたらした。戦後東北大学法文学部教授会は彼の復職を決定したが、立野は仙台に戻ることはかなわなかったはずだ。学生たちの歓呼の中で復職した教授たちについて記述するのなら、教壇に立つことも研究に復帰することもかなわなかった立野の悲惨にも触れるべきだったろう。
 1971年に立野の著作が『社会科学方法論研究』として刊行された。出版元は「立野保男論文集刊行会」となっているところを見ると、教え子たち、友人たちの支援で実現したもののようであった。大阪市立大学の今はもう廃止された経済研究所の事務室に赴き買い求めた。仙台の服部文男先生にも連絡したところ、東北大学のしかるべき場所にも所蔵したいということだったので、数冊の送付を仲介した。今、東北大学付属図書館の蔵書を検索すると、確かにこの書物は所蔵されていた。おそらく服部先生の斡旋による1冊と思われる。東北大学の面目のいくらかでもこれによって保たれたというべきか。服部文男先生の配慮に敬意を表したい。経済学部がどのように配慮したかについてはわからない。

(1)折原浩は、立野保男らの訳書を補訳するにあたり立野に連絡を取り快諾をえたと1978年2月31日の日付の序文に記している。マックス・ウェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波書店、1998年8月、16ページ。
(2)東北大学百年史編集委員会(編集)『東北大学百年史』第一巻(通史)、431ページ。
(3)同上、第四巻(部局史一)、193ページ。
(4)上林は、本来の商大事件とその周辺で検挙された「名和グループ」「貿易研究所グループ」をふくめて広い意味で商大事件と呼ばれたとしている。この三つのグループに関連した約100人(氏名不詳も含む)が検挙、取り調べを受けたが、貿易研究書の内田穣吉を除き全員が大阪商大の教員、学生、卒業生であった。本来の商大事件は約80人、名和グループは5人、貿易研究所グループは5人であった。これらの逮捕者は戦後に解放されるまで未決のまま拘留された。上林貞治郎『大阪商大事件の真相』日本機関紙出版センター、1986年7月、34-38ページ。
(5)同上、53ページ。
(6)『特高月報』昭和17年3月、7-14ページ。
(7)同上、7-8ページ。
(8)上林貞治郎、前掲書、53-54ページ。
                  (1917.8.15)

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