田中一村の画業に学ぶー「自由」に到達する道筋ー

 
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  9月11日、滋賀県守山市にある佐川美術館で開催されている「田中一村展」に出かけた。生誕110年記念をうたった大規模なものだ。展覧会が終わってからかなりの時間が経過したが、その時に感じ取り考え続けていることを書き留めておきたい。私には美術批評をする力などないし、する気もない。ただ芸術家に限ったことではない知的探求をなりわいとするものすべてに共通する規範について考えたことを少し論じるだけのことだ。
 田中一村(1908−1977)はほとんど知られていない無名の画家であったといってよいだろう。彼の名が世に知られるようになったのは、彼の死後いくつかのメデイアが彼の最晩年の画業を評価したことに始まる。私自身も数年前に『日本経済新聞』の評論記事で初めて知った。美術学校も中退し、一度も個展を開いた様子もなく、門閥的な絵画集団に属することもなかった、がこのように注目されるようになったことは、権威に弱いこの国にしてはなんとも不思議なことであった。田中がこの国の画壇なるもので成功する条件も可能性もほ、とんどなかったのではないか。公募展への入選は1回だけ、個展も開いた様子はない。
 政治でも経済でも、その制度が安定して維持されるためには血縁や地縁、門閥との関係で補強することが不可欠だ。たとえば、「所有」を考えてみたらよい。血縁関係がなければ所有はたちどころに維持できなくなり、ばらばらに崩壊してしまう。しかしこの国ではどうだ。確かに建前上は権利としての平等がうたわれた。しかし、才能があっても成功への強い意志の持ち主であっても、学歴や縁故なしに中央での「成功」とそれに相応する地位の上昇を手に入れることは困難なことだ。お金があるかどうかが成功の最重要の鍵になり、血縁がますます重視されるようになっている。私がかってうろうろしていた学会なるものでもそうだったのだから、本来なら遅咲きであれ早咲きであれ、その才能の結実だけで評価されるべき芸術の世界でも、この国では同じようなものだったに違いない。
 あわただしく各展示室を見て回って私がまず感じたことは、彼の絵そのものの評価以前に、公募展に入選してなんとか中央画壇にはい上がろうとする田中の必死の思いであった。そして人生の最後の局面で奄美に画業の可能性を感じ取り移住する。大島紬の職工をして生活の糧と画材の費用を稼ぎ出し制作を続けたという。
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 彼の画業が高く評価されるのはまさにこの時期で、とりわけ死の直前の作品群である。展示替で代表作は写真でしか見れなかったが、花鳥画という様式は完全に乗り越えられ、独自の美の世界を作り出していた。その制作の中で彼にとっては、既存の権威的関係への参加という思いはすでにどうでもよくなっていたのではないか。肩の力が抜けて、描きたいものを描く、風土に根ざして描く、その自由を彼はようやく手にしたのではないか。
 田中一村を「異端の画家」とか「孤高の画家」と評する人たちがいる。宗教やかって科学的社会主義を標榜し異端忌み嫌い攻撃していたマルクスレーニン主義のように、「教義」とその解釈を維持しようとする世界ならともかく、芸術をはじめとする創造の世界には本来「異端」などはあり得ない。あらゆる束縛からの「自由」、創造活動の「自由」こそがこの世界の基本ののだから。
 しかしながら、この「自由」を追い求めようとするものにとって、現代はなんと生きづらい時代ではないだろうか。なにがしかの経済的支援と地位の保障がない限り芸術家も学者もその営みを続けることはできないのだが、今の時代、この実にささやかな支援を得るのにも、権力を持つものにに対する「忠誠」が要求される。「孤高」であることは、それをしてのけることは成功の機会を自ら封じ、主流と称する流れとの関係を自ら断って認められることもなく市井に埋もれて生きることを選択することに他ならないのだ。
 「異端」とか「孤高」とかその表現は古めかしいけれども、現代に生きて知的創造活動の「自由」を求め続けるものにとっては、生きづらさを表す重い思い言葉であるように思われる。田中の絵の話からすっかりそれてしまった。彼の作品を見ながら、つい私は自身のこれまでの生き様と重ねて見てしまった。(2018.10.15)  

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