顔真卿「祭姪文稿」に魅せられて

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 東京国立博物館で「顔真卿ー王羲之を超えた名筆ー」が開催されている。この展覧会の中心は台北の故宮博物院から貸し出された表題の書でである。
 いつの頃だったろうか。この書の写真を見て惹かれるようになった。この書を直接この目で見たいと願うようになった。その理由は後で述べることにしよう。台湾を旅すること3回、その都度故宮博物院を訪ねたが展示されておらず、期待は満たされることがなかった。それが東京に貸し出されるという。例によって例のごとく北京から抗議があり、北京の機嫌を損ねないよう穏便に済ませようとする苦心の跡がある。
 早速上野に出かけようと思ったが、この至宝中の至宝を鑑賞しようと押し寄せる書道愛好者を押しのけて前に立つ体力の自信はなかった。結局諦めて、図録を取り寄せとになった。原寸大の写真がはめ込まれ、それを時々眺めているだけで体力のない今の私には十分すぎる安らぎを得られる。 
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 私は芸術としての書を学んだこともないし、その歴史も知らない。この1メートルにも満たない書の写しをいつどこで見たか記憶はないのだが、惹かれるものがあった。明確にこうとは断言できないのだが、私自身に固着している「書道」や「習字」への劣等感に解決を与えてくれるような気がしたからだと思う。
 戦時下の国民学校では、「習字」という科目があった。この科目で重要視されたのは、姿勢を正して墨を摺り、紙に向きあうことであった。お
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手本をなぞるように書き、二度筆は論外、筆順を厳密に守ることを求められた。字を覚えるよりも精神修養を求められ、修身の時間の様相を呈していた。私はまともにお手本通りかけたことがなかった。姿勢を正して手を汚さずに毛筆を操ることなどできなかった。だから3重丸をもらったり、優秀作品として張り出されることもなかった。それ以来私は字を美しく仕上げることが苦手になった。
 戦後になって、私の方向の定まらない筆遣いを個性的だと褒めてくれる変わり者の教師もいないわけではなかったが、ほとんどの教師は規格にそった読みやすい字で書くことを生徒たちに求め、字の綺麗な子によい点数を与えていた。
 原稿用紙は苦手だった。あの小さなマス目に一字一字はめ込むなど苦痛この上なし、編集者にはいつも悪筆を糾され、書き直しを求められたこともあった。コンピュータ・ワープロによって私は子どもの頃からの呪縛からようやく解放された。ようやく自由に書きたいと願うようになれた。
 顔真卿のこの書は、親族の非業の死を悼む追悼文の草稿である。草稿故の自由さがあるだけでなく、悲憤と追悼の思いがその筆致に写し出されていると評価されてきたようだ。この書を眺めるとき、私は練達した名人の知と感性を筆先で見事に表現していることに感動する。これこそが目標とされるべき到達すべき自由を象徴する作品ではないか。
 規範は、それによって統制し自己解放を抑制しようとする手段ではない。規範に従い修練することは後の自由への飛躍の前段階でしかないのだ。自在に自己を表現できる練達に到達すること、それこそが目標ではないだろうか。その点でいえば、私は残念ながらあまりに拘束されすぎた。あまりにこだわりすぎた。自由への前段階はあまりに長すぎた。それは字を書くことに限らない。文体についても学問の方法自体についても言えることではないか。 (2019/02/25)

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