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評論、書評、エッセイ

【帝国主義研究ノート】

●霧社からノッカマップへ

 一昨年台湾を旅した際に道路標識に「霧社」(むしゃ)という地名を発見して、私は日本の植民地統治についての無知を思い知らされてうろたえた。1930年に発生した台湾先住民の対日蜂起、いわゆる「霧社事件」の「霧社」とは先住民の結社の名称とばかり思いこんでいたからだ。友人たちが景勝地、日月譚に宿を取ってくれていたので、残念ながら道を反対にとり、私の「霧社」訪問と無知の解消の機会は次回の旅に持ち越された。
 昨年6月末、霧社を訪ねる機会がようやく与えられた。社会科学者のはしくれとして、無知は早急に埋め合わせなければならないと思った。台湾の友人たちは私の台湾先住民への関心を度の過ぎたものとして奇異に感じていただろうが、埋め合わせに私は焦っていた。山岳地帯に入るのには自動車を使わなくてはならないので、移動はかなりの強行軍だったが、なんとか日程に入れてくれた。地図でみると、東海岸から入る方が近いのだが、先日の大震災で損傷した道路は不通のままだという。結局台中から車をチャーターして入ることにした。
 なぜ先住民問題なのか。近代的帝国主義の支配のもとで苛烈な先住民絶滅政策と同化政策が展開され、近現代世界史は先住民絶滅を目指す血なまぐさい過程で彩られている。南北アメリカ大陸へのヨーロッパ人の入植過程で繰り広げられた先住民殺戮、オーストリア、ニュージーランドにおける先住民虐殺と苛酷な同化政策、奴隷貿易、コンゴにおける先住民の奴隷的使役、南アフリカにおけるアパルトヘイト等々、その実例はいくらでもあげることができる。
 ヨーロッパ帝国主義、そしてアメリカ帝国主義は徹底した白人優越性と選民意識を背景に展開され、その過程で形成された人種主義のイデオロギーはいまなお強固に維持されている。植民地支配に対する謝罪も補償もまだされてはいない。奴隷制は廃止され、先住民の権利が保障されるようになったとはいえ、現代でも疑似奴隷制は繰り返し登場し、先住民差別は消え去ることなく維持されている。
 これらの歴史的傾向を日本の植民地支配も共有している。帝国主義と植民地支配はアメリカ、ヨーロッパだけに関わるものだとするのは明らかに誤りだ。北海道、沖縄、朝鮮半島、台湾の支配のなかで展開された過酷な同化政策と少数先住民の殺戮は、先進帝国主義国に劣らぬ血なまぐさかいものであった。アメリカやヨーロッパの先進列強と同様に日本も植民地経営をやってみせることができる、そのことを示すことが後発帝国主義が帝国主義の仲間として認めてもらえる基準であった。「霧社事件」はその過程で引き起こされた事件であり、日本帝国主義の陰惨な統治の本質をを暴き出してくれる。

 台中を早朝に発ち、山中を走り、日本人襲撃と虐殺の舞台となった霧社の集落に到着、翌日に立ち寄る予定なので走り抜けた。そこからは下りとなり、七曲がりの道を走ってその日の宿泊地、廬山温泉についたのは正午過ぎだった。大型車をチャーターしたのは正解だった。車酔いに苦しまずにすんだ。それでもくたびれはて、ホテルのベットに倒れこんだ。
 このあたりは蜂起の指導者モーナ・ルダオが率いたマヘボ社があったあたりという。この温泉がいつ頃開発されたものかわからないが、おそらく蜂起の弾圧のあとであろう。深い谷と急流の川、そして森、当時の風景を想像できる。今は川にそって十数件のホテルからなる温泉街が形成されている。私の泊まったホテルの対岸あたりがモーナ・ルダオの抵抗闘争と最後の場所という。泊まったホテルのオーナーは日本語を理解できず土地の詳しい案内を聞けなかったが、ホテルのパンフレットには蜂起の遺跡の案内図が示されていた。

 第4代総督児玉源太郎は、漢族の抵抗を排除した後、先住民族に対する方針、「対蕃方針」の基本を次のように述べている。近藤正己氏の研究成果から引用させて頂く。
 「蕃界ニ棲息スル蛮人ハ頑蠢馭シ難ク野生禽獣ニ斉シ。若シ夫レ之ニ酒食ヲ饗シテ慰撫ヲ加エ乃チ依リテ誘導ヲ就サントスル如キ、長年月ノ間ニハ或ル程度マデ進化シ得ラルベキモ、刻下新領土経営ノ急要ハ決シテ斯カル緩慢ナル姑息手段ヲ准サズ。宜シク速カニ鋭意ニシテ前途ノ障碍ヲ絶滅セシムルコトヲ期スヘキナリ。」
 絶滅策の宣言である。なんと鮮烈で明確な先住民観であろうか。「禽獣」に等しいというのである(注)。
 しかし、絶滅させるには膨大な軍事費と人的損害を覚悟せねばならなかった。その上先住民族の居住地域の木材、樟脳等の資源への渇望はこの政策の実施を躊躇させた。彼らを低賃金の労働力として使役する方が得策であった。「威シテ而ル後撫スル」理蕃政策に転換したのである。しかし、「禽獣」に等しいとした児玉の「蕃人」観は変更されたのであろうか。そうではあるまい。その底流には児玉の先住民認識は脈々と流れていたと言うべきだろう。
 そもそも「蕃」とは中国語では古来、西の民族を「夷」と、南の民族を「蕃」と呼び習わしていたようである。『日本国語大辞典』によると、「蕃」とは、(1)中華からみて南方のえびす、南方の未開民族、南蛮、化外の民、(2)外国、または外国人、とされる。ほぼ中国的理解が示されている。未知の地域の人々であって、この表現には明確な差別意識は感じられない。
 「蕃人」となると漢字の日本的応用の世界が拡がる。『日本国語大辞典』によると、「蕃人」とは、(1)えびすの人、未開の土地の人、(2)外国人、(3)台湾の原住民である山地人の呼称、日本統治時代は高砂族ともいった、となる。この理解は、上で見た児玉の見解と比べたらなんと無内容な定義であろう。この解釈には「禽獣」にも等しいとした彼の差別的理解はみじんも感じ取れない。国語学者がつくる辞書とはこの程度の水準なのか。
 台湾での先住民抑圧の体験は、日本の文化的状況に大きな影響を与えた。私が子どもの頃に流行った『冒険ダン吉』という漫画がある。島田啓三が1933年から『少年倶楽部』に連載したものある。ダン吉という少年が南の海で難破、島に漂着し、そこに住む先住民を家来のカリ公というネズミと一緒に、持ち前のユーモアと頓智で王として支配する話だ。戦争を題材にしていないことと、ユーモアあふれた運びから人気を博した。南太平洋に住むのはポリネシア系の人たちでアフリカ系の黒人ではない。それはおくとしても、彼らの本来の名前を無視して、命令がしやすいように「蕃公1」「蕃公2」と呼び名を勝手につけるのである。「野生禽獣ニ斉シ」とする認識こそ含まれてはいないが、未開の「蕃」の支配者たらんとするイデオロギーに満ちたプロパガンダではあった。私の意識の深層にはこの認識がすり込まれている。であるからこそ、この意識を消し去ることにこだわるのだ。

(注)陸軍大将児玉源太郎(1852−1906)は日露戦争を勝利に導いた「英雄」である。彼はこの差別的感覚を一体どこで学んだのだろうか。調べてみたい。児玉の先住民観を明治期ナショナリズムや日露戦争を肯定的に理解しようとする考え方には同調しかねる。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で示された明治評価に不快感を覚えるのも同じ理由からだ。NHKが近くドラマ化し放映する予定と言うが、明治の群像を無批判に肯定的に描くことには危惧を感じる。

 この蜂起に対する抑圧策の特異さは、第1に、すでにみたような「野生禽獣ニ斉シ」とする先住民認識を基礎にして熾烈な武力攻撃を加えた点にある。第2に、先住民同志を戦わせる施策をとったことだ。反抗蕃と味方蕃に分け、先住民同志を争わせて反乱を鎮圧する、しかも処刑、馘首という残酷な形で抑圧させたのである。
 台湾先住民が本当に首狩りの風習を持っていたかどうかについて、私は論評するほどの知識はない。台湾の研究者たちもその風習があったことを認めていることからみて、おそらくあったのだろう。台湾人の研究者、傳氏は、先住民の数ある慣習の中で日本人が一番嫌ったのは「首狩り」ただったとしている。私の手許に一冊の写真集がある。1935年10月の日付で、台湾総督府警務局理蕃課内、理蕃の友同人の手になる『台湾蕃界展望』である。そこにはタイヤル族について次のような記述がある。「彼らが祖先の遺訓とする首狩の陋習を墨守し、他種族の侵入を拒みつつ我領台に至った為、佐久間総督五カ年計画討伐事業も、其の大部分は実に本族に対して行われたのである。」
 しかし傳氏のを含めこの指摘は納得できるものではない。反抗蕃の首に懸賞金をかけ首狩りをそそのかしたのは総督府側ではなかったのか。敵対するものの首を狩る、あるいは犯罪人を斬首するというのは日本の支配層の風習ではなかったのか。今日でも相手方に対する敵対的闘争心をあおるために「首をとってこい」と命じることは普通に行われているではないか。先住民の中に残っていた風習を思い起こさせ、利用したのではないのか。

 現在の霧社には二つの象徴的な記念碑がある。一つは日本統治の痕跡である。集落を見下ろす小高い丘の上にかっての日本の統治の明確な痕跡が残っている。神社の跡だ。丘を登る石段の入口に赤く塗られた石の門がある。これは鳥居を一部を破壊して転用したものであることはすぐにわかる。石段を登ると中国寺院がある。その前に2基の石灯籠があることからみてかってここに神社があったことは確かだ。仮小屋のような寺院の背後に新しい華麗な寺院が建築中であった。新しい寺院の正面は旧寺院の方角と違っていた。新寺院の完成とともにこのモニュメントは撤去されるのだろうか。それとも日本の支配の現実を風化させないために保存されるのだろうか。
 もう一つは、霧社の集落に入る入口にある蜂起の指導者モーナ・ルダオの壮大な墓所である。モーナ・ルダオは追い詰められて家族を殺し自殺した。埋葬場所は秘匿されたが、密告によって暴かれ、彼の遺骸は台北帝国大学医学部の解剖学標本にされたという。日本の敗戦後に遺骨は取り戻され、ここに壮大な墓所が営まれたのであろう。その前に抗日蜂起の記念碑とモーナ・ルダオの立像がある。中川浩一氏らの著書にある墓所の写真にはこれらの立像や記念碑は写っていないから、この記念碑は民進党政権の下での政策転換によるものに違いない。
霧社事件とは日本人が虐殺された「事件」ではなく、支配に抗した「蜂起」であった。記念碑の前に立ち、私はその思いを強めた。

 霧社を体験しながら、とりわけモーナ・ルダオの墓所の記念碑を前にして、私の郷里で起きた歴史的事件の結末に思いをはせてた。1789年(寛政元年)に起きたアイヌ最後の武力闘争となったクナシリ・メナシの反乱と血なまぐさい鎮圧の結末である。
 場所請負商人飛騨屋の苛烈な搾取、絶滅をめざしているともとられかれない非人間的対応に対して1789年5月に、クナシリ・メナシのアイヌが蜂起し、飛騨屋の雇われ和人を中心に71人を殺した事件に始まった。松前藩は直ちに鎮圧部隊を派遣し、関係したアイヌをノッカマップに集め、殺害に直接関わったアイヌ37人の首をはねさせた。裁判と処刑はこの地域の首長たちの手で行われた。狩られた首は塩漬けにされて松前に送られ、城下に晒されたという。
 アイヌの抵抗運動はシャクシャインの反乱で終わったとする歴史書が多く、この事件は注目されてこなかった。近年、蠣崎波響(かきざきはきょう)の画業の再評価の動きと共に注目され始めているように思われる。1989年に出版された中村真一郎の名著『蠣崎波響の生涯』もこの動きに大きな影響を与えた。
 クナシリ・メナシの反乱の翌年、1790年に描かれた彼の代表作「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)12枚は、この反乱を収拾した、というよりも収拾を強制された味方アイヌの首長たちの肖像であった。彼のこの絵の一枚をコピーしておこう。クナシリ総首長ツキノエの肖像画である。この絵の人物を見て、この絵だけでなく「夷酋列像」に写し取られたすべての人物像を観察すると、すぐにその異様さに気づく。身にまとった装束はあまりに壮麗華美である。アイヌの総首長といえども、手に入れることが難しい高価な蝦夷錦の衣を身にまとい黄金づくりの大刀を佩くことはなかったに違いない。それほどまでに着飾って同胞に君臨することはなかったはずだ。おそらくは鎮圧の功によって藩主から拝領したものか、それとも画家による演出だったに違いない。私はその両方だった想像する。
 波響のこの絵は明確な政治的意図を持って描かれたものだ。一つは味方して身内を処刑したことに対する論功行賞であり、もう一つは松前藩の蝦夷支配が、これほどまでに華美に装った首長を頂く民族をも包摂していることを誇示しようという意図を持つていたのではないか。実際のアイヌは非人間的な搾取と抑圧によって絶望的な貧窮状況にあった現実とは乖離していた。波響は蝦夷地(現在の北海道)を支配していた松前藩主の子として生まれ、のちに家老となった人物である。彼の実体からすれば、この絵の政治的性格は明瞭だ。
 この絵を見て異様に感じるのは、首長たちの目に力がないことだ。同胞や縁者を処刑ざるを得なかった悲痛を考えるなら、また血なまぐさい処刑を求めた支配者の前でポーズをとること、というよりもとらされることにに躊躇したのであろうか。この絵は絶対的服従を勝ち取った抑圧者、弾圧者の側の記念碑でないのか。
 ノッカマップには抑圧されたものたち、処刑されたものたちのための記念碑はなにもない。チャシ跡とされる岬、小さな入り江と川、この河口にアイヌたちの集落があったのだろう。天気がよければ対岸にクナシリがみえる。おそらくこの川には川面がふくらむほどの鮭の遡上があったに違いなない。彼らの遺骸はノッカマップの岬のどこかにまとめて埋葬されたが、その場所は今ではわからない。今訪ねると昆布採りと鮭定置網で生計を立てる小さな漁村があるだけだ。殺された和人の慰霊碑は網にかかって海中より拾い出され、今は納沙布岬に祀られている。この地に運んで陸揚げするときにあやまって海に落としたのであろう。あるいは建立されたものを誰かが故意に海中に投じたのかもしれない。後者は私の推理でしかない。しかし、このほうが劇的ではないだろうか。

 霧社とノッカマップが私につきつける課題は何か。時代が違っても、突きつけられている問題は同じだと思う。
 なによりもまず、先住民の抵抗の歴史をどのように位置づけるのかという問題だ。アイヌの歴史的体験が地方史のテーマにすぎず、日本人の移住や開拓の歴史のエピソード程度にしか捉えない歴史認識は終わりにしなければならない。アイヌや琉球の民の体験を日本史の軸にすることが求められている。
 そのためには、日本人単一民族論の虚構とその背後に潜む「日本人」優越性の意識を打破しなければならない。先住民に対する抑圧と同化、殺戮と絶滅化政策の歴史を無視した「日本人」論は捨て去られなければならない。
 2008年6月6日、国会は全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択した。この決議採択には驚かされた。単一民族論を公然と主張してはばからない政治家たち、自覚するか否かにかかわらず単一民族史観を展開する歴史学者たちが横行するのに、この決議採択は欺瞞そのものではないのか。その前年、2008年9月13日国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に賛成投票したことにより発生した採択劇であった。もちろん採択それ自体は大きな前進ではあるが、意識変革がない限りちゃばんでしかない。
 1980年代末に私は南アフリカに調査に入っていた。アパルトヘイト体制のもとでの差別と抑圧の実態を目の当たりにして、日本の現実に対す無知を知らされ、北海道に生まれ育った研究者として恥じた。
 今でも私は自分の無知を恥じている。台湾先住民に対する同化政策は熾烈を極めた。蜂起の弾圧のあとに彼らを待っていた運命は苛酷な者だった。強制移住、日本的生活様式と日本名の強制、天皇に対する絶対的服従、そして最後には兵士として戦場にかり出された。その身体的機能に目をつけて南方戦線に送り込まれたという。この歴史を知らなかったということで、社会科学者の責任がは免罪されるものではない。知らないのなら、学んでその空白を埋めなければならない。霧社への旅は私に社会科学者としての自覚をうながす旅となった。

【参照文献・資料】
 このテーマについて、私の手許にある文献・資料を参考までにあげておく。
●霧社蜂起(霧社事件)について
中川浩一・和歌森民男編著『霧社事件ー台湾高砂族の蜂起ー』三省堂、1980年5月
「台湾先住民ー日本信じ、最前線へ出征ー」(写真が語る戦争)、『朝日新聞』2007年4月14日
春山明哲『近代日本と台湾ー霧社事件・殖民地統治政策の研究ー』藤原書店、2008年6月
傳 ギ(たまへんに其)貽「台湾原住民族のおける植民地化と脱植民地化」『岩波講座・アジア・太平洋戦争』第2巻(「帝国の戦争体験」)岩波書店、2006年2月、所収
近藤正己「台湾総督府の「理蕃」体制と霧社事件」『岩波講座・近代日本と植民地』第2巻(「帝国統治の構造」)岩波書店、1992年12月、所収
周婉窈著、濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴訳『図説・台湾の歴史』平凡社、2007年2月
津島祐子『あまりに野蛮な』(上下2冊)講談社、2008年11月


●クナシリ・メナシの反乱、ノッカマップについて
『蠣崎波響とその時代』、展覧会図録、1991年
中村真一郎『蠣崎波響の生涯』新潮社、 1989年10月
根室歴史研究会『クナシリ・メナシの戦い』郷土の歴史シリーズ1、2005年2月
花崎皋平『静かな大地ー松浦武四郎とアイヌ民族ー』岩波書店、1988年9月
舟戸与一『蝦夷地別件』新潮社、1995年5月
  
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