きたにひと

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私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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蔵書整理の顛末

1.蔵書一部整理の顛末

 6年ほど前のことだったと思う。私の家で同年配の大学教員の友人たちと酒を酌み交わしての歓談の時、定年の迎え方が話題になり、それぞれの人生設計が披露された。その際に研究室の整理に話が及んだ。数十年も大学教師をしていると、書物や資料がたまりにたまって、定年を迎える時にその始末にみな頭を抱えている。先輩諸氏の体験に学んで、私もそろそろ整理の作業を始めなければならなかった。とにかく私は、きれいに整理してやめたい、そればかりを考えていた。

 某国立大学教授で近く定年を迎えるPさんは、「書庫を増築する。そこに書物を全部移す予定だ」という。某国立大学副学長で私と同年のQさんは、「必要な本は少ししかないから、それを抜いておけば、あとはゴミ!用務員さんにゴミの処分を指示してそれでOK!」という。定年にまだすこし間のある某私立大学教授のXさんは、「今から不要な書物をしばってまとめてあり、いつでも捨てられる」という。どのやり方も私には不可能であった。Pさんのような大邸宅ではないし、書庫はすでに作ってしまって、とっくに満杯。Qさんのように命令できる権限もなく、しかも私の大学には用務員はいなかった。Xさんのように常日頃から周到な準備をしていなかった。研究室一杯分の書物、資料、ノート・原稿類を収納するスペースを作り出すことは、私の家では不可能であった。私は、研究手段を捨てるというかこれまでやったことのない仕事に自分流で取りかからなければならなくなったのである。

 どこの大学図書館でも閲覧できるような和雑誌、洋雑誌は全部捨てた。卒業論文を書く学生には借りた書物を返さないでもよいと告げた。大学院生には好きな本をどれでも持って行けと整理への協力を依頼した。友人の若い研究者たちにも、テーマ別に書物をまとめて、もらってくれとダンポール箱で送りつけた。新設の大学で書物がほしいと開けば、さっそく寄贈した。今にして思えば、誠に申し訳ないことをしたと思う。自分に不要なものを勝手に押しつけてしまったからだ。おそらく若い人たちの研究室の片隅に、始末に困って積み上げられているに違いない。ところが、これだけやっても書物はほとんど減らなかた。

 片づけていると、蒐集していたことさえも忘れていた資料や膨大な労力を費やして蒐集した資料が次々と現れる。ヨーロッパで集めた鉄鋼業発展史やヨーロッパ経済統合関連の資料、蒐集したさまざまなパンフレット類には、それぞれ蒐集したときの思い出が重なる。しかし、ヨーロッパにでかければすぐに調べられる上、ドイツ語で文献を集めたから、ドイツ語を理解できる人が少ない今となっては、すべて破棄するしかなかった。

 公表した論文や本の粗原稿のたぐいもすべて焼却した。ノートの処分には閉口した。私はもともとノートを取るのは不得手で(いまでもその不器用さは変わっていない)、それほど多くはないのだが、記念として残すもの以外はすべて焼却炉にまわした。講義ノートも最新のものを除いてすべて焼却。どれにも愛着があり、ページを繰るごとに記憶がよみがえってくる。実に苦渋に満ちた作業であった。作家の友人は粗原稿を破棄する私の行為には驚いていた。著名な作家ならいざ知らず、無名の経済学者の原稿に高い値が付くはずもない。

 そのあとは、お定まりの古書店頼みである。これがまた大変で、最近の古書店は経済学者の蔵書などまったく興味を示さない。大学の新設が減った上、学生が本を読まなくなったせいである。さいわいなことに、大阪梅田の「梁山泊」(現在は京都の百万遍近くに移転)の島元さんが快く引き受けて下さったので、比較的順調に処分が進むかに見えた。ところが、研究室にあるのは雑本ばかりで、それだけを差し上げるのでは島元さんに申訳ない。自宅の書庫から価値がまだありそうな全集や復刻版をいくつか研究室に運び入れ、それとセットにして引き取って頂いた。

 島元さんは「京都のご自宅にトラックでいつでも伺いますよ」と言われる。「蔵書を売るほど落ちぶれたのかと、近所の人に勘ぐられるのはいやですからねえ」と私が言うと、島元さんは経済思想史家として著名なS先生を引き合いに出して、「S先生のお宅にはいつもトラックでお伺いしていますよ」。「とんでもない。私はS先生ほどたくさん書物を献呈される著名な学者ではありませんよ」。いずれにしても、島元さんが私の本を買ってくれたのは、自宅の書庫にある書物をいずれ頂戴できると踏んでのことだったと想像する。

 きれいに整理するのに3年かかった。職を辞するときは身辺を完璧に整理して痕跡を残さず消え去りたいという私の願いは、退職する3月までに見事に実現され、大いに満足した。しかし、この作業にくたびれ果てたことも事実である。どの本にも思い出があり、捨てるか残すかに迷い、ストレスの大きな決断を要したからだ。古書目録にかっての私の蔵書とおぼしき書物が載っているのを発見するのは、あまり気持ちよいものではない。しかも、売却値と価格との大きな差には愕然としたりもする。私の恩師の一人であるM先生は、私の話を開いて、「本を売るのは、君、10年早すぎるよ」と、現役で蔵書を処分するなど疲れて当たり前と、あきれたご様子だった。

 しかし、現役中に蔵書を処分した学者は私に限ったことではない。ヴェルナー・ゾンバルトのような大家の例もある。彼の処分は、その蔵書がもつ歴史的価値とともに、歴史的行為として評価が高い。


2.ヴェルナー・ゾンバルトが蔵書を整理したわけ

 ヴェルナー・ゾンバルトは、19世紀末から20世紀前半を代表するドイツの経済学者であるが、彼は私の今の年齢と同じ66歳の時に、その蔵書の約3分の2を実に見事に売却したのである。

 1929年、11,574冊を大阪商科大学(現在の大阪市立大学)に売却している。その蔵書は「ゾンバルト文庫」として日本におけるドイツ社会経済思想史研究の最重要の源となっている。ご子息のニコラウス・ゾンバルトの回想によると(注1)、1928年に3万冊売却したことになっているが、この年代と冊数は明らかに間違いである。彼によると、売却後も6千冊から7千冊の蔵書が残されていたというから、ゾンバルトの個人文庫は全体でおよそ2万冊にものぼる巨大なものであった。ゾンバルトの邸宅は、二階建ての円形の書庫を中心に家族の部屋はその周辺に配置されるというものだったようだ。いかに蔵書が巨大なもので、彼と家族の生活の中心にあったかが想像される。その3分の2を、彼は現役の教授時代に売却したのである(注2)。

 ゾンバルトはなぜ現役の時に大量に蔵書を処分したのだろうか。二つの理由が考えられる。一つは、増えすぎて維持できなくなったのだろう。もう一つは、想像するに、60歳代半ばにして彼は学者としての先が見えてきたのではないだろうか。彼は売却の前年に、刊行に5年を費やした大著『近代資本主義』全6冊を完成させている。彼が学者としてめざしたライフワークに一応の一区切りがついたのである。

 ニコラウス・ゾンバルトはこの亮却処分の歴史的意義をおおよそ次のように評価する。「このような巨大な個人文庫はブルジョワジー支配が項点を極めた時期の形態であった。ブルジョワ社会からの転向者であり、政治亡命者であったカール・マルクスが、資本主義社会の分析を大英博物館という公的な図書館で完成させたということは、決して偶然ではない。象徴的なできごとごとではなかったのか。搾取者が搾取されるという理論は、ブルジョア的な個人文庫に依存しては十分には展開されるはずもなかったのだ。生産手段の社会化は資本主義から社会主義への移行過程の特徴の一つである。高度資本主義を研究の対象としたヴエルナー・ゾンバルトも、その過程は避けられないものと考えていたのである」(注3)。巨大な個人文庫もまさにそのような歴史過程を避けて通ることはできなかった。19世紀的な個人蔵書は、すでにその歴史的役割を終えつつあったのだ。ゾンバルトの巨大な文庫が売却という形でその大部分が社会化されながらも、最後は戦火によって灰焼に帰したことは、その象徴的出来事であった。こコラウスのこの評価をはたして彼の父ヴエルナーも共有した心境であったのだろうか。そうだとすれば、見事というほかはない。

 小谷義次さんは、ゾンバルトが社会主義・社会運動関係の書物をこれほどまで大量に手放したことに疑念を表明された(注4)。私自身も、同じ疑念を抱いたことがある。しかし、目録を仔細に検討してみると、その疑念は氷解する。ゾンバルトは大事な書物は確実に手許に残したように思われる。たとえば、フリードリヒ・エンゲルスとゾンバルトの交友関係はよく知られている。ところが、売却されたものの中にはエンゲルスのものは非常に少ない。おそらくは著者自身から贈られたであろう初版本も含まれていない。ゾンバルトはこれらの書物を手許に残したことは想像に難くない。ゾンバルトのベルリンの蔵書は第二次大戦の爆撃によって焼失した。私の推論も証明する術はないのだが。

 ちなみに言えば、ゾンバルトは書物をていねいに扱う愛書家でもあった。私が彼の書物を利用した限りでは、彼の書き込みはすべて鉛筆でなされている。これはあとで述べるヨハン・プレンゲなどとは対照的である。プレンゲは鉄ペンで筆庄の強い筆跡で多くの書き込みを残している。ゾンバルトのお孫さんの一人が祖父の蔵書を見に大阪市立大学を訪問された時に、書庫を案内したことがある。彼の子どもの時の記憶では、祖父はいつもポケットに鉛筆と小さなメモ用紙をしのばせ、本を読みながらいつも何か字を書いていたという。丹念に蔵書を調べてみると、メモが多数はさみ込まれているのが見つかった。懐かしそうに眺めておられたことを思い出す。ゾンバルトは書き込みで本を汚すことをきらっていたように思われる。

注1 Nicolaus Sombart, Jugend in Berlin 1933-1943. Ein Bericht, Frankfurt am Main 1996, p.50ff.
注2 ゾンバルトの蔵書の壮大さと1929年の売却の意義については、次の書物でも取り上げられているが、その議論はニコラウス・ゾンバルトのエッセーに依拠している。
Bernhart vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Eine Einfuehrung in Leben, Werk und Wirkung, in : Bernhart vom Brocke (Hrsg.), Sombarts "Moderner Kapitalismus". Materialien zur Kritik und Rezeption, Muenchen 1987.この英訳は次に納められている。
Bernhard vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Capitlism-Socialism - His Life, Works and Influence, in : WERNER SOMBART 1863-1941 - Social Scientist, Volume 1 ( His Life and Work ), Marburg 1966. さらに、Friedrich Lengler, WERNER SOMBART 1963-1941. Eine Biographie, Muenchen 1994, pp.184-5.
注3 Nico1aus Sombart, op.cit., p.51ff。このくだりは、下記の『目録』に寄せたニコラウス・ゾンバルトの序文にほぼ同じ文体で収録されている。小谷義次さん好みの議論なのだが、小谷さんはこの序文を読まなかったのだろうか。
Nicolaus Sombart, Vorwort fuer einen Sonderkatalog, ゾンバルト文庫目録刊行全編『大阪市立大学付属図書館所蔵
ヴェルナー・ゾンバルト文庫目録』日本評論社、1967年、vi−viiページ。
注4 小谷義次、「ゾンバルト文庫について」、前掲書、xiページ。


3.ヨハン・プレンゲの蔵書のたどった運命

 もう一つ私の蔵書処分体験にまつわるエピソード、しかも私の蔵書処分に強烈な影響を与えた「出来事」を紹介しょう。1966年からドイツ学術交流会(DAAD)奨学生としてドイツのミユンスター大学に留学をしていた時のことである。大学近くの古書店にヨハン・プレンゲの蔵書が売りに出ているという話を友人から開いて、早速出かけてみた。プレンゲはミユンスター大学教授として学問的生涯を終えた筈で、私は彼が所蔵していたと想像されるマルクス主義関連の書物に出会えることを期待していた。

 そこでみた衝撃的な情景を、私は忘れることができない。書物が朽ちていくさまを、まの当たりにした。おそらくこの古書店が仕入れた時には整然と積み上げられていた書物が歳月とともに崩れ去り、床全体に散乱したのだろう。文字通り「ゴミの山」に見えた。大教授の蔵書にしてこの無惨な末路に暗然とさせられた。

 店主は80歳代のご老人であった。高齢者特有の気むずかしさからか、その書物の山になかなか触らせてくれない。独身のご老人のガールフレンドの写真を見せられたり、彼女を褒めちぎつてあげたり、ひとしきり昔話や世間話をした後でようやく、数冊手に取ることができるといった具合だった。どれほど通ったか記憶がはないが、とにかく通い詰めて全部で100冊ほど買った(というより買わせてもらった)と思う。そのうち経営学、組織論関係の文献は関東の某大学経営学部に引き取ってもらった。私の手元にも経済学やマルクス主義関係のものが20冊ほど残ったが、研究室蔵書整理の際に、友人たちに差し上げて、今はほとんど残っていない。

 あの朽ちかけた本の山がどうなったのか。それから10年後、私がアレクサンダー・フォン・フンボルト財団のリサーチフェローとしてボン大学に滞在していた時のことである。ミユンスターを久しぶりに訪ね、あの古書店はどうなっているか探してみた。あの老人がまだ存命のはずもなく、別の業種の店が営業していると想像していた。驚いたことに、そこには新しい古書店が営業していたのである。プレンゲの蔵書などどこにも見あたらなかった。若い店主に尋ねたところ、ご老人の親戚縁者でもなく、自分が店を開くために借りた時はまったく何も残されていなかったという。プレンゲの蔵書は文字通りのゴミとして処分されたに違いない。暗然たる気持ちであった。著名な学者の蔵書でも、時とともに忘れられ、朽ちていくのだ。

 その後、私はプレンゲの蔵書の一部と偶然再会することになる。それが何年のことだった忘れたが、カール・マルクスの不倫の子の存在が新聞紙上で報道された年であったことを記憶している。その年、私は旅の途中で、トリアのカール・マルクスの生家を訪れた。彼の生家は今ではドイツ社会民主党系のフリードリヒ・エーベルト財団が博物館として公開している。マルクスの不倫の子の新開切抜きも展示されていたので、私はその年をよく覚えているのだ。マルクスの多くの著作がガラスケースに展示されていたが、そのうちの多くに私はヨハン・プレンゲ旧蔵書の表示を発見して驚愕した。社会民主党が没後に購入したのか、それとも本人が生前に寄贈したのかはわからない。しかし、彼の青年時代からの思想的・政治的営みの一端が保管されていることに、私は感動した。朽ちずに書物が生かされている、「社会化」されていることに安堵もした。


4.これからいったいどうするか

 名城大学に招かれて、大学教員としての私の生活はなお続けられることとなった。蔵書は増え続ける。研究室の蔵書の規模は知れている。問題は私の蔵書全体の処分である。どう処分するか、これが私の頭を悩ませはじめている。その過程は数年前に、前の大学を辞めた時に開始されるはずだった。再度大学教員としての仕事についたために、先送りされてしまったのである。ゾンバルトはその蔵書を見事に社会化し、日本で多くの学者を育てる手段を与えてくれた。私のささやかな蔵書とゾンバルトのそれは比較のしようもないくらいの隔たりがある。それを前提にしたとしても、今の日本では社会化する道はほとんど閉ざされている。それともプレンゲの蔵書の運命を辿り、その大部分が文字通りゴミと化してしまうのだろうか。その情景を想像するだけでも、私は戦慄する。できうるならば、私はゾンバルトにならいたいものだと思う。

 私の書斎の壁に、19世紀ドイツの画家カール・シュピッツヴエークの作品の複製が二枚飾られている。1枚は「書物の虫」、もう1枚は「貧しい詩人」と題されている。前者は19世紀のビーダーマイヤー風の書庫で、脚立の上で本をひもとく老人の姿が描かれている。これはまさに1929年以前のゾンバルトの姿でもある。19世紀的私有の表現である。確かに学者には書物の所有へのあくなき願望がある。場合によってはそれが排他的な独占欲にもなる。私にとって、この絵は書物をため込むことへの自戒の意味を持っていた。残念ながら、私はこの自戒に沿った暮らしをしてこなかった。

 もう1枚の絵、これは私のもっとも好きな絵の一つである。ミュンヘンのノイエピナコテーク所蔵の絵で、さまぎまな想像をかき立ててくれる。貧しい詩人は雨漏りのする屋根裏部屋で寒さに震えながら思索にふける。暖を取るために燃やす書物もほとんど残されていない。彼は思索にふけっているが、売れる詩を書けているはずはない。彼の手許に最後に残された書物はとの。ようなものなのだろうか。なろうことなら、市井の貧しい学者としてロマンチックに生きたい、名誉も勲章もない暮らしをしたいという私の願いを表現しているような気がするのである。所有への執着をこの絵に示されるように見事に捨て去ってみたいといつも願い、残念ながら実現できずにいる。

 さて、私の蔵書整理はどのような結末を迎えるだろうか。プレンゲの蔵書の一部のように、自分の意志と関わりのないところで埃となって消えてゆくのは、望むところではない。望むところは自分の意志で処分することだ。見事に処分して、消えたいものである。

(『名城大学経済・経営学会会報』No.11、2002年11月30日)

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